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出雲尼子軍記Ⅴ 吉田郡山城の戦い

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 1537年祖父経久に家督を譲られた晴久(1514年~1561年)。祖父の後見の下ではありましたが晴久は目覚ましい活躍をします。1538年には大内義隆(義興の子)から石見大森銀山を奪取。因幡国を平定し、播磨に進出し播磨守護赤松晴政の軍勢を撃破しました。播磨の国人たちは次々と晴久に帰順、一時的に播磨を制圧します。この時が尼子氏の絶頂期で最も天下に近かったと思います。晴久は出雲・隠岐備前・備中・備後・伯耆因幡・美作八カ国の守護を兼ねる大勢力になりました。

 ただ、宿敵大内氏は天下への野望は諦めたとはいえ全国有数の地域大国であることには間違いなく、本国周防・長門と北九州の筑前豊前の守護を兼ね石見・安芸の守護職も獲得していました。大内氏の勢力圏は130万石を数えるほどです。晴久が八ヶ国の守護であっても完全に支配しているのは出雲・隠岐伯耆・美作くらいで60万石余。それ以外の国は、動員令には従うもいつ離反するか分からない勢力でした。

 大内氏が全力を挙げて尼子に攻めかかればどうなるか分からなかったかと思います。尼子氏に幸いしたのは、九州において肥前守護少弐氏、豊後守護大友氏と大内氏が深刻な対立を抱えていたからです。もともと大内氏が奪った筑前守護職は少弐氏のものでした。力関係は大内氏が圧倒的に上ですが、何度滅ぼしてもしぶとく蘇り筑前肥前で少弐氏との戦争は泥沼化します。豊後の大友氏は鎌倉以来の名家。豊後はもとより筑後、肥後、日向に影響力を持ち豊前にも進出を図っていました。こちらも侮れない勢力で大内氏は全力で尼子討伐できない状況でした。

 ここで大内氏の状況を見てみましょう。一時は天下を握りかけた大内義興ですが、尼子経久との戦争は泥沼化し安芸門山城攻めの陣中病を発し1528年12月52歳の生涯を閉じていました。後を継いだのは22歳の嫡子義隆(1507年~1551年)です。義隆を後世無能な人物だと評する人もいますが、家督継承当時はやる気があり、有能な家臣団に支えられ全国でも有数の大大名であったことは間違いありません。

 安芸に一人の国人領主がいました。その名は毛利元就大江広元の子孫で吉田庄(安芸高田市)の小領主。しかし謀略の才に長け、大内尼子の対立をうまく利用し調略や婚姻政策で着々と勢力を拡大、侮れない勢力になっていました。最初大内方、次いで尼子氏に付いた元就ですが、安芸国大内氏の勢力が増すとあっさり大内方に乗り換えました。

 月山富田城内では、「裏切り者毛利元就を討つべし」という声が大きくなります。たしかに元就を放っておくと安芸国から尼子の勢力が追い出されかねないのです。この議論に隠居していた経久は加わらなかったそうですが、経久の弟下野守久幸は元就が侮れない人物であることから慎重論を述べます。主戦派の諸将は久幸を「臆病野州」と罵ったと言われますが、尼子家中に慢心があったことは確かでしょう。こういう時積極的意見に引きずられるのはよくある事ですが、晴久も元就を侮っていたのでしょう、毛利討伐の断は下りました。

 1540年尼子晴久月山富田城を出陣します。従う兵は3万。尼子氏の総力をあげた布陣です。尼子勢は出雲赤名から備後三次を経て吉田庄に殺到します。例によって先陣は国久率いる新宮党でした。間者によって尼子方の動きを知った元就は、吉田郡山城に籠城する策を採ります。吉田郡山城は吉田盆地の北に位置し標高389メートル。全山を要塞化した難攻不落の山城でした。来るべき日に備え元就は兵糧を十分に蓄え領民も含め8千で城に入ります。同時に大内義隆に救援の使者を送りました。

 晴久は吉田郡山城北西4キロの風越山に本陣を構えます。湯原宗綱勢3千を左翼、吉川興経ら安芸勢を右翼に配し、城を十重二十重に囲みました。尼子勢は挑発を繰り返しますが、元就は頑として応じず城を固く守るのみでした。尼子勢が攻めあぐんでいるところ、同年9月には重臣陶隆房率いる大内氏の援軍1万が到着します。大内義隆自身も1万を率いて周防国を出発していました。晴久は、尼子方に入った旧守護武田信実に妨害させますが時間を遅らせただけでした。

 大内義隆としても、毛利元就を見捨てたら以後大内氏に従う国人領主がいなくなるので必死です。ここに初めて尼子氏と大内氏の決戦の機会が巡ってきました。ところが尼子勢は吉田郡山城攻囲の布陣のままでしたので、内の毛利勢と外の大内勢から挟撃される不利が想定されます。晴久は撤退を決断しました。尼子勢3万は粛々と撤退を開始しますが、この機会を待っていた毛利勢が打って出ました。大内勢もこれに追随し激戦となります。この時殿軍として激しく戦ったのは臆病野州と揶揄された下野守久幸だったと伝えられます。久幸は尼子本隊を逃がすため壮烈な戦死を遂げました。



 吉田郡山城の戦いは、得意の絶頂だった尼子晴久はじめての挫折です。大内氏との戦いは一転守勢にまわりました。大内義隆がこの機会を見逃すはずはありません。次回、本拠地月山富田城まで攻め込まれた晴久の戦いを記します。