鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

大内氏の滅亡と厳島の合戦

イメージ 1

イメージ 2

 最近、吉川弘文館の「大内義隆」(福尾猛市郎著)を読みました。歴史小説などでは知ることのできない詳しい情報を得ることができてたいへん満足できました。

 その中で大内氏の滅亡の様子と厳島の合戦について詳しく書かれていたのでご紹介していと思います。

 最盛期には周防・長門・石見・安芸・備後・筑前豊前肥前と八ヶ国に勢力を振るった大内氏ですが、滅亡はあっけないものでした。明や朝鮮との貿易で上げた莫大な利益でその首都山口の繁栄は極まり文化は栄えましたが、そのために文弱に流れ尚武の気風はすたれました。

 大内氏最後の当主、義隆は戦をするにも名分を求め、筑前の少弐氏を攻めるために太宰大弐の官位を求めたり、伊予を攻めるために伊予介の官位を求めるなど不必要なまでな行動を起こします。

 このあたり義隆の性格の弱さかもしれません。侵略しているという後ろめたさがあったのでしょう。



 大内氏は、戦国時代有数の大大名ですが支配体制は強固とはいえませんでした。領国を国主が直接治めるのではなく、周防は陶氏、長門は内藤氏、筑前は杉氏(豊後守)、豊前は杉氏(伯耆守)というように重臣たちを守護代とし間接支配にとどめていました。


 しかも守護代世襲されたため、彼らの力が各国に蓄積され大内氏は次第に浮き上がった存在となっていきました。当主に器量のある場合はそれでも支配できましたが、器量のない当主が出てくれば手に負えなくなります。その弊害がもっとも現れたのが義隆の時代でした。


 義隆は軍事でも出雲の尼子氏を攻めて大敗するなど失点が多く、守護代たちからの信頼をなくしていました。そのことを知ってか知らずか義隆はますます軍事から遠ざかり、文弱に流れていきます。


 重臣筆頭で、周防守護代陶隆房は日ごろからこれを苦々しく思っていましたが、義隆が文官の寵臣相良武任を朝廷に奏上し従五位遠江守に叙せられたことで怒りが爆発します。

 武官たちの怒りを恐れた武任は豊前に蓄電しますが、反乱の発端はまさにここだったと考えます。


 義隆は、隆房の台頭を抑えるため石見の吉見正頼、安芸の毛利元就など外様の有力者と婚姻関係を結んで対抗しようとします。さらに穏健派の長門守護代内藤興盛に命じてこれら外様と連携させ対抗させました。

 ところが信じられないことに義隆の対抗策はこれだけでした。まだこの段階だったら、陶氏以外の守護代たちと外様に命じて隆房を滅ぼすことも可能でした。しかしそれが出来なかったのは、義隆自体、隆房の武勇を恐れていたのかもしれません。


 危険を察知した隆房は、着々と謀反の準備を進めていきます。あるいは利を喰らわせあるいは武力で脅し、謀反を起こしても味方しないまでも中立を保つことを守護代たちに約束させました。

 それだけ義隆の政治が疎まれていたのかもしれません。


 1551年、ついに陶隆房は謀反の兵をあげます。その兵力は五千。山口の大内館には義隆を守るために三千騎が集まったと伝えられますが、一夜のうちに二千騎に減り、その後も減り続けました。長門の内藤氏、筑前豊前の両杉氏も静観したため、義隆は山口での防戦を諦めます。内藤・杉の軍勢五千騎は逆に陶軍を助けるために来襲したくらいです。

 姉婿である石見の吉見正頼を頼ろうとしますが、陶軍に追いつかれ石見行きを断念しました。今度は海路九州に逃れようと長門国大津郡仙崎港から出航します。ところが強風のために港に吹き戻されてしまいました。


 事ここにいたって命運尽きたことを知った義隆一行は大寧寺に入り一族ことごとくが自害して果てました。これが名族大内氏の最期です。享年四十五歳。



 大内氏の旧領はどうなったのでしょうか?その後の歴史を簡単に振り返ります。



 謀反が成功した隆房は、さすがに大内氏にとって代わろうとはしませんでした。豊後の大友氏から血縁の晴英(義隆の姉の子)を大内家の当主として迎え入れ、これを傀儡として操ることで支配しようとします。晴英は大内義長と改名します。隆房も晴英から一時を貰って晴賢と名乗りを変えました。


 晴賢は、ライバルとなる可能性のある筑前守護代の杉興運を攻め滅ぼし、石見の吉見正頼の居城津和野城を囲みました。

 毛利元就はこのとき去就を明らかにしていませんでした。しかし晴賢の謀反を利用する形で安芸に勢力を拡大していきます。旧大内領の安芸国内の城を次々と奪っていたため対立は必至でした。



 吉見正頼の悲鳴のような援軍要請に元就がしぶしぶ応じたのは1554年です。その前に元就は厳島に宮尾城を築き陶晴賢を挑発していました。

 安芸一国をようやく統一した元就と、大内氏の旧領の大半を制圧した陶晴賢では実力の違いがありすぎました。そこで元就は得意の謀略を使います。自分の家臣に晴賢への内通の手紙を書かせ、そのなかで「元就は安芸の喉元にあたる厳島の宮尾城を陶軍に落とされることを非常に恐れている」と言わせました。


 これを信じた晴賢は二万(三万という資料もあり)の大軍をもって厳島に上陸しました。1555年8月のことです。このチャンスを待っていた元就は嵐を衝いて毛利勢四千を厳島の背後から上陸させます。

 夜の明けるのを待って毛利軍は陶軍の背後から襲いかかりました。虚を突かれた陶軍は大混乱します。逃げ場のない狭い島の中、我先にと船に乗り込んで脱出しようとした陶軍でしたが、そこを毛利軍に衝かれ次々と討たれていきました。世にいう厳島の合戦です。

 毛利元就村上水軍にも援軍を頼んでおり、水上に脱出できた陶軍も撃破されます。晴賢は逃げようにも船を失い、万策尽き大江浦(一説では高安原)で自害して果てました。享年三十五歳。


 こうして毛利元就は、陶晴賢の領土をそっくり貰うことになりました。のちの大大名、中国の雄・毛利氏はこの戦いによって誕生したといっても過言ではないでしょう。