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長宗我部戦記Ⅵ  四国平定

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 長宗我部元親が土佐を統一したころの四国の情勢を見ていきましょう。

 阿波は守護細川真之と守護代三好長治が支配権を巡って血で血を洗う内戦中でした。讃岐は西に香川氏、中央に香西氏ついで羽床(はゆか)氏、東には三好一族の十河氏が盤踞していました。伊予は北が河野氏の勢力範囲、中央は大洲城を中心に伊予宇都宮氏、南部の宇和郡には西園寺氏が居ました。

 ここに一つの事件が起こります。元親の弟島弥九郎親益が戦で受けた傷を癒すため播磨の有馬温泉に湯治に向かおうとしていたところ、阿波海部郡の豪族海部宗寿(かいふむねとし)に敵襲と勘違いされ殺されたのです。元親はこれを口実として宍喰から海部郡に攻め入り海部城を落としました。

 伊予では河野氏を中国の毛利氏が後援し大洲城の伊予宇都宮氏を滅ぼします。南伊予は一条氏時代から西園寺氏と小競り合いが続いていましたが、1576年重臣久武内蔵助親信を大将とする長宗我部勢が侵入、宇和郡喜多郡の諸城を落としました。大洲城の大野直之は長宗我部勢と結び北上の構えを見せます。危機感を抱いた河野氏は毛利氏に泣きつき、毛利軍は河野氏を助けるため伊予に上陸、大野直之を討って長宗我部勢と対峙しました。これで伊予平定は難しくなります。

 1577年、阿波において守護代三好長治が戦死、一時的に守護細川真之方が有利になるも三好方は長治の弟讃岐の十河存保を当主に迎え入れ逆襲に転じました。地力に勝る三好方は次第に細川方を追い詰めていきます。ここで細川真之は致命的なミスを犯しました。背に腹は代えられないと隣国長宗我部元親と結び阿波に長宗我部勢を引き入れようとしたのです。

 元親にとっても渡りに船でした。さすがに四国は言うに及ばず畿内にも一時は大きな勢力を誇った三好一族と全面対決するには大義名分が必要で、それが労せずして手に入ったからです。元親が阿波侵入に先立って目を突けたのは白地城(三好市池田町白地)でした。白地城は阿波の奥地吉野川上流に当たり吉野川沿いに下ると阿波の中心部徳島平野、西の境目峠を越えると伊予、北の猪ノ鼻峠を越えると讃岐に至る交通の要衝です。これを兵法では衢地(くち)と呼び、ここを制する者が有利になる地形でした。

 当時白地城主は三好長慶の妹婿大西覚養。元親が阿波守護細川真之を助けるため逆賊十河存保を討つという大義名分を掲げると、弟大西頼包を人質に差し出し元親と一時和議を結びます。三好一族の長老三好笑岩はこれを聞き覚養に使者を送りました。
「今織田信長様に四国遠征を願い出ておりそれが受け入れられた。もうしばらく辛抱しておれ。私が先陣として四国に入ることも決まっておる」
 笑岩の書状を受け取った覚養は一転態度を翻し元親と敵対します。裏切りを知った元親は1577年阿波に侵入し大西勢を破りました。白地城はあっという間に落とされ覚養は讃岐に逃亡します。人質となっていた覚養の弟頼包は元親に厚遇されていたため、弟の勧めもありついに降伏しました。十河存保は怒り大西覚養を攻め滅ぼします。

 元親はすぐには徳島平野に入りませんでした。守護細川真之と十河存保が激しく戦っていたからです。両者の共倒れを待って阿波を占領する腹でした。白地城を根拠地と定め西伊予に侵入、河野氏の領地を除いて伊予はほぼ手中に収めます。讃岐侵攻は苦戦しました。1578年激戦の末藤目城を落とし財田城に進出。天霧城主香川信景はこれを見て長宗我部氏と和睦、元親の次男親和を養子に迎え家督を継がせます。次いで讃岐中部の羽床氏を降し、元親は東讃岐の十河領に攻め込みました。

 伊予の情勢は河野氏が毛利氏に介入を要請したため膠着状態に陥っていました。丁度織田信長の中国攻めが始まり毛利勢が引き上げたため元親は再び侵攻を再開、津島氏、北ノ川氏、御荘氏ら南伊予の諸豪を降します。ところが大森城の土居清良だけは頑強に抵抗しこの戦いで長宗我部軍の総大将久武親信が戦死してしまいました。

 阿波では1582年、守護細川真之が攻め滅ぼされます。結局元親は真之後援を公言しただけで見殺しにしたのです。真之の策は愚策以外の何物でもありませんでした。元親にとっては三好勢が真之との戦いでぼろぼろになってくれるだけで良かったのです。この年の6月、中央では天下統一を目前にした織田信長が家臣明智光秀によって本能寺で討たれるという大事件が起こります。織田家の四国遠征は目前に迫っていたので、元親は危機を脱した形でした。

 同年8月2万3千の大軍を動員した元親は白地城を出立、三好氏の本拠勝瑞城に迫ります。十河存保は5千の兵で迎え撃ちますが中富川の戦いで敗北本拠讃岐の十河城に逃げ込みました。念願の阿波平定を果たした元親は、存保に止めを刺すべく9月十河城に攻めかかります。この時長宗我部勢は讃岐衆、降伏した阿波衆を加え3万6千に膨れ上がっていました。

 後のない存保は必至で防戦し十河城は容易に落ちません。元親は損害が増えたため一時兵を引きました。1584年6月、態勢を整えた元親は再び十河城を攻めます。城は落城し存保は羽柴秀吉を頼って落ち延びました。あとは伊予の河野氏を降すだけです。河野氏も同年12月長宗我部勢の圧力に抗しかねついに降伏しました。元親は四国平定をほぼ果たします。


 そんな元親に最大の危機が迫りつつありました。秀吉の四国遠征です。本能寺の変後秀吉が次の天下人だといち早く察した三好笑岩は、これと接近し秀吉の甥秀次を自分の養子に迎えます。秀吉も、四国に大きな影響力を持つ三好一族を粗略に扱うわけがありません。秀吉が四国平定のために準備した兵力は10万。一方四国全土から動員しても4万が限度。元親はどのように戦うのでしょうか?



 次回、秀吉の四国遠征と元親の戦いについて述べましょう。