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ナポレオン戦記Ⅰ  ガルダ湖畔の戦い1796年

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 ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)はコルシカの貧乏貴族出身、フランス革命時には陸軍大尉でした。しかし若いころから野心にあふれ、特に砲兵戦術には自信を持っていました。
 
 1793年、ツーロン包囲戦において砲兵隊指揮官ド・マルタン少佐が負傷した事から後任にボナパルト大尉が選ばれます。当時革命軍には正式な士官教育を受けた者がおらず、質は相当悪いといわれていました。その中で正式に士官学校を卒業したナポレオンは貴重な存在である程度出世は約束されていたとも言えます。そして少佐に進級したナポレオンは期待以上の働きを示しました。砲撃の後夜陰に紛れて奇襲しツーロン要塞を占領したのです。この戦功でナポレオンは三階級特進、少将になります。
 
 しかし、ロベスピエール派と目されていたナポレオンは、革命政府の権力争いに巻き込まれ左遷されついには失職してしまいました。革命政府は混乱を極め王党派の反乱を招きます。無能な指揮官しかいない革命政府はこれを鎮圧できず、やむなく有能なナポレオンを復職させるしかありませんでした。ナポレオンは、パリ市民に被害が出るのも顧みず反乱軍を容赦なく砲撃、鎮圧します。これによってナポレオンは中将に進級、国内軍総司令官という要職を得ました。私はナポレオンの能力は言うまでもなく、時代が彼を求めていたような気がしてなりません。
 
 
 列強のフランス革命干渉戦争は未だ続いていました。1796年3月、革命政府はオーストリアの支配する北イタリアへ遠征軍を派遣する事を決定します。司令官に選ばれたのはナポレオン。イタリア方面軍は参謀長べルティエ、先任副官ミュラ、配下の師団長にマッセナ、オジュロー、セリュリエなど後のナポレオン戦争で活躍する将帥たちが含まれていました。この第一次イタリア遠征は後のナポレオン戦術のすべての要素が発揮された戦役として有名です。その中で彼の戦術を象徴する「ガルダ湖畔の戦い」について語ろうと思います。
 
 
 1796年4月オーストリア軍主力を北イタリアから駆逐したナポレオンは、北イタリアの要衝でオーストリア軍1万が籠るマントバ要塞を攻囲中でした。8月オーストリア軍はこれを救援すべく5万の兵力を派遣します。主力ヴィルムザー将軍率いる2万5千はガルダ湖東岸の中央路を。右翼のカスダノビッチは2万を率いてガルダ湖西岸を、メツァロシュは5千を率いて左翼を進みました。
 
 地図を見てもらうと分かる通り、ガルダ湖は南北に細長くドイツとイタリアを隔てるアルプス山麓にあります。オーストリア軍はアルプスの峠道を三方に分かれて進撃しました。この時ナポレオンの手元にあったのは3万。従来なら、マントバ要塞の1万を包囲中に背後を襲われるのですから一時包囲を解き撤退するのが軍事常識でした。しかし、ナポレオンはオーストリア軍の進む進撃路が自然の障壁に阻まれ横の連絡が困難だという点に注目します。
 
一度決断するとナポレオンの行動は迅速でした。攻囲に最低限の兵力を残すと、残り全軍を率いまずオーストリア軍右翼に襲いかかります。両軍はガルダ湖西岸サロー付近でぶつかりますが、油断していたオーストリア軍2万は奇襲に驚き潰走してしまいました。この時中央のヴィルムザーは友軍の異変に気付き、湖南岸を回って救援に駆けつけます。しかし待ちかまえていたフランス軍によってさんざんに叩かれ死傷者2万という壊滅的打撃を受けて敗北しました。
 
 一度激しい戦闘をした部隊が連戦で自軍より大きな兵力とぶつかるのは一見不利な気がします。疲労も相当なものでしょう。しかし、意外とこのようなケースでは疲労よりも戦勝で上がった士気の方が凌駕するものなのです。戦場巧者のナポレオンは兵士の心理をよく理解していたと言えます。
 
 兵力集中、機動、各個撃破、ナポレオン戦術の真髄が発揮された戦いと言っても良いでしょう。戦争論を記したクラウゼビッツもこの戦いを激賞しています。ナポレオンは、この時乗馬5頭を乗り潰し、機動力を得るため自軍の大砲をすべて埋めて移動しました。