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概説ロシア史Ⅶ  ディミトリー事件とロマノフ朝の成立

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               ※ロマノフ朝創始者 ミハイル・フョードルビッチ・ロマノフ
 
 
 リューリク朝最後のツァーリ、フョードル1世は気が弱く病弱な人物でした。妻の兄ボリス・ゴドゥノフは、野心家で義弟から実権を奪い事実上国政を壟断します。そんな中1598年フョードル1世が後継ぎを残さず病死しました。これも疑えばきりがないのですが、リューリク朝断絶をうけて次のツァーリを決めるべく全国会議が開かれます。
 
 当然ゴドゥノフは根回しをしていたので、ツァーリに選出されました。しかし貴族たちは彼の正統性に疑問を持ったため、ゴドゥノフは彼らを圧迫し有力貴族を追放します。最も有力な貴族ロマノフ家のフョードルも例外ではなく、モスクワから追放したばかりか出家させて禍の芽を摘みました。
 
 ゴドゥノフは彼なりにツァーリ権力強化に頑張ったようですが、士族階級と商人階級を優遇し過ぎたために貴族階級と圧迫政策で生活が窮乏した農民たちから深い恨みを受けます。農民一揆は続発し、ゴドゥノフ政権を揺るがしました。
 
 1603年、ポーランドリトアニア連合領ウクライナにディミトリーという青年が登場します。彼はイヴァン4世の末子を名乗りリューリク朝の正統な後継者である自分を援助してほしいとポーランド政府に申し出ました。実は、ディミトリーという人物は確かにイヴァン4世の末子にいましたがすでに1591年に死去していたのです。その事実を知っているポーランド政府はこの要求を黙殺しますが、ポーランドの不平分子やゴドゥノフ政権に不満を持つロシア人、コサックたちが彼のもとに集まり一大勢力となります。
 
 1604年偽ディミトリーは、彼らを率いてロシア領に入りました。ゴドゥノフは討伐軍を差し向けますが、全国で農民反乱が相次ぎその鎮圧に追われ、国軍の士気も低下していたためこれを滅ぼすことができませんでした。そんな中、1605年4月、ゴドゥノフは死去します。ゴドゥノフに不満を持っていたロシア貴族たちは、彼の息子フョードルを殺害、偽ディミトリーをモスクワに迎えツァーリとして推戴しました。
 
 おそらく偽物と知りながら貴族たちがこのような暴挙に出たのは、ちょっとロシア以外では例がないと思います。いかし所詮は簒奪者で偽者にすぎませんでした。満足な政治ができるはずもなく間もなく首都モスクワで反乱が起こり偽ディミトリーと彼の推戴者たちは民衆に虐殺されます。
 
 残った貴族たちは、自分たちの中から名門のヴァシーリー・シェイスキーを次のツァーリに選びました。が、依然生活が苦しく何ら改善を見せなかった事から農民の不満は収まらず、首都モスクワでも下層民の反乱が相次ぎます。そういう民衆の不満を巧みに糾合し、南ロシアでボロトニコフという人物が反乱を起こしました。ボロトニコフはもと貴族の奴隷だったそうですが脱出しコサックの群れに投じ彼らの支持を受けていたと云います。
 
 反乱軍は、コサックの他に農民や都市の下層民が合流し侮れない勢力となりました。1606年にはモスクワ郊外に迫る勢いでした。ただ首都モスクワの守りは固く膠着状態に陥ります。間もなく反乱軍の中で内紛が起こり、混乱を衝いた政府軍の攻撃によってボロトニコフは殺されました。
 
 しかし動乱は収まりませんでした。1607年には再びディミトリーと名乗る者がポーランド国境に出現しロシアへ進軍を開始したのです。当然偽者でした。しかも「前年モスクワで殺されたのは身代わりで自分は助かったのだ」という主張までしたのです。これを偽ディミトリー2世(1世は最初の偽者)と呼びます。
 
 今回の偽ディミトリーの性質が悪かったのは、どうやらポーランド王ジグムント3世(在位1587年~1632年)の援助を受けていた事でした。偽ディミトリー軍はモスクワに迫るも攻略失敗、モスクワ郊外のツシノ村に布陣します。シェイスキーのロシア政府は、反乱を鎮圧できず1609年バルト沿岸のロシア領を割譲する条件でスウェーデンに援軍を求めました。スウェーデンの援軍を受けたロシア軍は勢力を回復し偽ディミトリー軍を破ります。反乱軍はたまらず敗走カールガに逃げ込みます。
 
 偽ディミトリー陣営は、相手がスウェーデンという外国に援助を頼むなら自分たちもそうしようとポーランド王ジグムント3世に使者を送りました。これを待ちかまえたいたジグムントは大軍を率いて国境を越えスモレンスクを包囲します。恐れをなしたモスクワ政府はジグムントに使者を送り、「ジグムントの王子ウラディスラフを次のツァーリに迎えるからどうか兵を引いてほしい」と懇願しました。
 
 ジグムントの狙いは、偽ディミトリーを助ける事ではなく自分がロシアの支配者になる事でしたからこれを二つ返事で承諾しました。ところが1610年偽ディミトリーがモスクワを急襲し、恐れをなしたモスクワ貴族たちはまたしても自分たちが推戴したシェイスキーを裏切りクーデターを起こしてこれを廃位します。貴族たちはポーランド軍のモスクワ入城を要請、これをうけてジェルキエフスキー将軍率いるポーランド軍がモスクワに入り治安回復に努めました。ジグムントは、偽ディミトリーを見限り黙殺します。反乱軍は軍隊としての体を成さなくなり偽者は根拠地トゥシノから秘かに逃亡、仲間に裏切られて殺されました。
 
 実は、偽ディミトリー2世はディミトリーの生母マリアから本物と認められその正妻マリナ・ムニシュフヴナとの間に子をもうけています。その子供は「小悪党」とよばれコサックから推戴されますが1614年、ミハイル・ロマノフによって処刑されたそうです。よほど本人と似ていたのでしょう。
 
 ところでこの一連の事件で一番悪いのは誰でしょう。私は隣国の混乱に付け込んで国を乗っ取ったポーランド王ジグムント3世だと思います。モスクワを制圧したジグムントは、ロシア貴族たちとの約束を反故にし、息子ではなく自分自身がツァーリになると宣言しました。反対者は次々と逮捕し、恐怖政治を布きます。さすがに外国勢力にここまで好き勝手にされては収まりませんでした。だらしないロシア貴族に代わって、民衆が反ポーランド闘争に立ち上がります。
 
 こうなるといくらポーランド軍が精強でも、膨大な数の反乱軍には敵いません。1610年モスクワ総主教ゲルモゲンの提唱で各地で解放軍が組織され1611年にはモスクワに迫りました。ポーランド軍クレムリン宮殿に籠城します。しかしさすがにポーランド軍、頑強に抵抗し宮殿を守りぬきました。1611年夏には、ロシア西方の要スモレンスクも陥落し事態はどう転ぶか分からなくなりました。
 
 クレムリンの友軍を救うべくスモレンスクポーランド軍がモスクワに迫ります。ロシアを守る解放軍、ロシア征服を企むポーランド軍はモスクワ郊外でぶつかりました。激しい戦いが続きます。しかし膨大な犠牲を出しながらも首都モスクワは解放軍が守りぬきました。援軍が敗走した事で、クレムリンポーランド軍もついに降伏、ロシア国家を揺るがした未曽有の動乱はここに終わりを遂げます。
 
 ロシアの心ある貴族たちも加わった解放軍は、それまでのロシア貴族たちとは違い賢明でした。1613年2月、全国会議が開かれかつて追放されたフョードル・ロマノフの息子ミハイル・フョードルビッチ・ロマノフをツァーリに選出します。すなわちロマノフ朝の始まりでした。
 
 ロマノフ家は、リューリクの子孫ではありませんでしたがイヴァン4世の最初の妃をロマノフ家から出すなどロシア随一の名門で、彼の即位に文句を言う者はほとんどいなかったそうです。次回はロマノフ朝の発展とピョートル大帝の治世を描きます。