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元軍軍船の脆弱性

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 前記事の関連です。これはあくまで私の個人的見解であり何ら資料的裏付けがないことは前もって申し上げておきます。

 さて、元帝国が成立し東アジア各国へ侵略の手を広げたわけですが海を渡っての上陸作戦がことごとく失敗したのは何故でしょうか?もちろん一国を征服できるような大規模な海軍力を持つ国は世界史上でも限られてきますし、現代でもそれが可能なのはアメリカだけ。その意味では元は当時の世界第一の超大国であったことは間違いありません。それだけ上陸作戦は難しいものなのです。

 フビライ汗の海外征服事業のうち陸路を伴わない純粋な海軍力だけで行われた主要なものは4回。対日本戦2回(文永・公安の役)、対占城(チャンパ)戦、対マジャパヒト王国戦。それ以外にも樺太の対アイヌ戦もあります。実は元の樺太侵攻で戦ったアイヌ勢力を率いたのは日本の安東氏(安東水軍で有名。のちの秋田氏)だったかもしれないという事を日本史書庫安東氏シリーズでも言及しましたが、これが事実だとすると元の樺太侵攻も広い意味での元寇と言えなくもないです。

 それはともかく、元の海洋侵攻はことごとく失敗しています。しかも4回のうち3回が暴風雨によって軍船が転覆し壊滅するという結果。75%という確率を高いと見るのか妥当と見るのか?もちろんどのケースでも現地勢力の抵抗が激しく暴風雨がなくても最終的には失敗していたでしょう。

 日本の元寇の場合、この暴風雨を神風と呼び台風であったとする説が多いです。ところが調べてみると文永の役10月。これは旧暦ですので太陽暦に換算すると11月になります。公安の役は5月(太陽暦6月)。公安の役は季節的に台風の可能性は高いですが、文永の役は台風シーズンから外れます。

 私は文永の役の時の風は台風ではなくちょっと強い暴風雨くらいではなかったかと考えるのです。もともと元軍の軍船が凌波性も復元力も低い船であったために転覆しやすかったのではないかと思います。何故この考えに至ったかというと最近起きた韓国の旅客船転覆事故です。

 事故の原因が明らかになってくると、復元力を無視したトップヘビー、過積載、挙句の果てには復元力を保証するバラスト水を基準の4分の1に抜いていたというあり得ない状態で運航していました。これではとても船に明るいとは言えません。犯罪的な無知といってもよいでしょう。韓国海軍の船もトップヘビーでとても海洋には出られない設計だとか。現在でもこの状態だとすると当時(13世紀)も同様だと考えるのが自然でしょう。

 通説では、元軍が使用した軍船は高麗が建造したもので高い造船技術を持っていたが侵略者元に対する反抗心から手抜き工事をしたと言われます。しかし、私はどうもこの話嘘くさいと睨んでいます。というのはもし手抜き工事がばれたら高麗もただで済むはずはないからです。それに元寇には多数の高麗兵も参加しています。私は高麗はフビライ汗に命令され精一杯頑張って船を建造したものの、その造船技術の低さからまともな船ができなかったと解釈するのが自然だと思います。一見造船技術が高いと見えるのは外観の豪華さだけで船の基本である凌波性、復元力に対する配慮は無きに等しかったと考えるのです。通説のような解釈は、もしかしたら親韓派歴史学者による買い被りだったのかもしれません。

 こう書くと、「だったら公安の役はどうだ?造船技術の高い南宋の軍船も多数参加していたはずだ」と反論される方もいると思います。南宋の造船技術が高いというのは認めます。のちの明時代にも鄭和艦隊がインド洋まで進出しアフリカ東海岸に達したほどですから。

 ところがこれも詳細に検討すると、公安の役の南宋軍船は必ずしも堅牢だったと言えないのでは?と思えるのです。南宋末期の主敵はモンゴルです。とうぜん南宋海軍も対モンゴル戦を中心に軍船を整備したはず。ということは渡洋攻撃などありえず、長江・淮河という河川防衛のための喫水の浅い軍船が主力だったと考えます。南宋の交易船は凌波性・復元力に優れていても軍船は荒い海を長距離移動するほどの能力を持たなかったのではないかと思えます。実際、公安の役の時南宋軍は船内に疫病が発生しまともな戦力として使えなかったほどですし。

 もちろんモンゴル人自体も海にも船にも無知なので、外観だけで船の本質である凌波性・復元力の欠陥を見抜けなかったのでしょう。朝鮮民族はもちろん現代でもそうですから船に関する本質を理解せず外観だけの船しか作れなかった。そう考えればちょっとした風でも転覆した謎が解明できるのでしょう。

 皆さんはどう思われますか?