鳳山雑記帳はてなブログ

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元寇   Ⅴ 弘安の役

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 1281年5月21日、東路軍は対馬に上陸します。日本軍は寡兵ながらも激しく抵抗し少なからぬ被害が出ました。
 
 5月26日、東路軍壱岐に到着。暴風雨に遭遇し兵士113人、水夫36人の行方不明者を出します。今回の遠征の末路を想像させる出だしでした。
 
 
 壱岐で合流するはずだった江南軍の到着が遅れたため東路軍は単独で博多に向かいます。しかし今回は日本軍も万全の準備を敷いていました。石築地で前進を阻まれた元軍は海の中道で本土と繋がる志賀島を占領します。
 
 
 しかし今回は日本軍も慣れていました。夜になると小船を操って夜襲を敢行します。蒙古襲来絵詞で有名な竹崎五郎季長も参加したそうです。
 
 さすがの元軍もこれには悩まされました。夜も安心して眠れなくなるからです。見えない疲労はどんどん蓄積されていきます。
 
 陸路でも海の中道を通って日本軍が攻撃を掛けました。異国の軍隊との戦い方に慣れてくれば地元の防衛軍の方が有利になるのは自明の理です。元軍は弩弓を並べて必死に防戦、日本軍に三百ほどの損害を与えますが東路軍の東征都元帥である洪茶丘が討死寸前になるほどの危機に陥ります。
 
 
 今回の日本軍はかなり優勢に戦を進めました。そうこうしているうちに江南軍との合流期限である6月15日がやってきました。戦況が不利な事もあり東路軍は一時壱岐に撤退し、江南軍の到着を待つ事にします。
 
 しかし肝心の江南軍はなかなか現れませんでした。それもそのはず。慣れない長期航海で疫病が発生しすでに3千人もの犠牲者を出していたのです。江南軍が平戸を経てようやく壱岐に到着した時には気息延々の状態でした。
 
 
 そして今回の日本軍は前回と違って積極的でした。6月29日、松浦党、竜造寺、彼杵の肥前勢を中心とする水軍数万が海路総攻撃を開始したのです。
 
 
 7月2日、竜造寺家清らは瀬戸浦から上陸、島にいた元軍と激戦を展開します。日本軍は鎮西奉行少弐経資少弐資能が負傷し、少弐資時が戦死するなど決して楽な戦いではありませんでしたが、ついに元軍を壱岐から叩き出すことに成功しました。
 
 元軍は、全軍平戸島に避難します。平戸で体制を整え直した元軍は7月中旬再び博多湾に向かいました。湾内の鷹島を占領した元軍は本土上陸の機会を窺います。
 
 
 7月27日夜、またしても日本軍に海路からの夜襲を受けた元軍は大混乱に陥りました。元軍は鷹島に防塁を築き防衛体制に入りました。
 
 
 同じころ日本側は続々と援軍が到着します。六波羅探題からも引付衆宇都宮貞綱率いる六万余騎が北九州に向かって進軍、すでに本州長府まで達していました。
 
 
 7月30日夜半、またしても台風が博多湾を襲います。海上は5日間荒れ元軍の軍船は多くが沈没、損害も甚大なものになりました。元軍の諸将は軍議を開き、撤退するかそのまま戦闘を継続するか激論します。
 
 しかし元帥の一人范文虎の「撤退すべし」という主張が通りました。元軍の主だった武将たちは、頑丈な船を選んで乗船し多くの部下たちを見捨てて逃亡します。
 
 
 哀れなのは残された元兵です。おそらく直属のモンゴル兵は連れて逃げたでしょうから、高麗兵と南宋の降兵だけが置き去りにされたのでしょう。
 
 日本軍は掃討作戦に入り、元軍十万余が殺されたといわれます。それでも二~三万の捕虜が出ました。彼らはどうなったのでしょうか?おそらく奴隷として酷使され非業の最期を迎えた可能性が高いです。送り返したという話は聞きませんから…。あるいは運の良いものは日本に土着し、今の日本人の中に血を残しているかもしれませんね。
 
 無事に半島まで逃げ帰ったものは三割にも満たなかったそうですから完敗といってもいいでしょう。今回の日本軍の勝利は決して神風ではありませんでした。天は自ら助くる者を助く、まさに彼らの奮闘が勝利を呼び寄せたのです。
 
 
 フビライはこの敗戦でも全く凝りませんでした。三度目の日本遠征を計画していたといいます。しかし江南で反乱が起こり遠征計画は中止になります。日本にとっては幸いでした。
 
 
 
 
 大勝利を果たした鎌倉幕府でしたが、外国との戦いでは土地を得る事もできません。命を的に奮戦した御家人たちに恩賞を与えることができないのです。これが武士たちの不満になり結局は鎌倉幕府を滅ぼすことになります。
 
 
 元寇で軍費を費やし生活に困窮する御家人も多く、悪党などの反体制的な存在も出現しました。またこれ以後倭寇として中国沿岸を襲う者たちも出ます。松浦党など元寇に参加した水軍が中心でしたが、彼らの意識の中には元寇の復讐という意味もあったのでしょう。
 
 
 元寇によって起こった矛盾は、最終的に幕府を滅亡させます。しかし未曽有の国難から日本を守り抜いた鎌倉幕府は、歴史的にその使命を十分に果たしたと言えるでしょう。