一方、元の皇帝フビライは戦いに負けたとは思っていませんでした。たまたま暴風で被害が出たから一時撤退してくらいの認識でした。もしモンゴルに海の知識があれば高麗が軍船の建造に手抜き工事をしたと気付くはずでしたが、知識がなかっただけにこんなものだと思ったのでしょう。
しかし、相変わらずの高飛車な態度で全面降伏を求めた元の国書を読み執権北条時宗は激怒します。哀れな使者たちは鎌倉郊外龍ノ口刑場(江の島付近)で全員斬られました。
通常、国際慣例ではこのような時使者は斬らないのが通例です。日本がそれを知らなかった事は責められませんが、それにしても戦いで一応負けた方が高飛車に降伏を要求すれば相手が怒るのも当然でしょう。
使者たちは運が悪かったとしか言いようがありません。
複数の要素が重なり合って歴史は進むのです。フビライが前回の恥をすすぎ今度こそ生意気な小国日本を征服しようと思った事が最大の理由でした。
日本遠征で宋兵が摺り潰されたらそれも良し。遠征が成功し日本を占領できたらさらに良し。どちらにしろモンゴル本体は傷つかずに大きな利益を上げることが最良ですから。
南宋の滅亡で多くの高僧たちが日本に亡命してきていました。時宗の禅の師となった無学祖元などもその一人です。恨みを持つ彼らのフィルターを通しての元・モンゴル観があったことは否めませんが、実際に元兵の猛威を経験した人々の証言だけにリアリティはありました。
時宗は祖元の進言を受けて、元の襲来を覚悟していたといいます。
1280年、フビライ汗は日本を征服する専門の組織である征東行省を設置します。そこで日本を征服する計画を練りました。モンゴル、高麗軍を主力とする東路軍四万は前回と同じく半島南部合浦から出港、南宋の降兵十万を主力とする江南軍は江南各地の港を出港し、壱岐で合流して一気に北九州を襲うという作戦でした。
戦端は間もなく開かれようとしています。1281年1月、フビライはついに日本遠征の命を下しました。