鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

#日本史

源平合戦Ⅵ 木曽冠者義仲

1180年(治承四年)という年は平氏にとって最悪の年でした。以仁王の乱に始まり、源頼朝の挙兵、木曽義仲の挙兵、富士川の大敗と平氏政権の衰退を窺わせるような出来事が次々と起こります。平氏の棟梁清盛は、反平氏勢力が蠢く京都を嫌い、自分たちの本拠摂…

源平合戦Ⅴ 富士川の戦い

頼朝一行は石橋山の敗戦後なぜ安房国に逃れたのでしょうか?安房国は房総半島の先端で敵が攻めてきても一方を守れば良いというのが理由の一つでしょう。それに安房には頼義以来の源氏の所領もありました。加えて相模国三浦半島一帯を支配する三浦氏は水軍を…

源平合戦Ⅳ 頼朝立つ

大番役というのは平安末期から室町時代初期にかけて地方の武士たちが京都や鎌倉の警護をする役目でした。平安末期の大番役は、朝廷・院・摂関家が対象で任期は3年。すべて武士たちの自弁ですからその負担は大きかったそうです。ただ一方、中央の権門と繋がり…

源平合戦Ⅲ 源三位頼政の死

前記事で近衛基通が出てきたのでここで藤原北家の嫡流五摂家について簡単に記します。保元の乱で関白藤原忠通は、父忠実や弟悪左府頼長が崇徳上皇方に付いたのに対し、後白河天皇方に味方して勝利しました。というより、頼長を溺愛した忠実が忠通に関白職を…

源平合戦Ⅱ 鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀

平清盛の正室時子の妹滋子(建春門院)と後白河法皇の間に生まれた高倉天皇。高倉天皇の即位は、藤原摂関家や六条天皇親政派の復活を阻止するために、清盛と後白河法皇の利害が一致した結果でした。 清盛率いる伊勢平氏一門と後白河院政派の微妙な権力バラン…

源平合戦Ⅰ 平清盛の台頭

平安時代末期に起こった保元の乱・平治の乱は貴族政治を終わらせ武士の時代を到来させた戦乱でした。保元・平治の乱に関しては過去記事で詳しく書いたのでここでは概略を述べるに止めます。 保元の乱(1156年)は極論すると、白河・鳥羽院政によって権力を奪…

源平合戦 序章 大蔵合戦

河内源氏の祖は清和源氏の始祖六孫王源経基の孫頼信です。頼信は父満仲の三男で、長兄は鬼退治で有名な摂津源氏の祖頼光、次兄は大和源氏の祖頼親でした。系図からも分かる通り、本来頼信の子孫が清和源氏の嫡流として約束されていたわけではありません。ち…

安倍晴明の子孫って土御門家でしょ?子孫いないってどういうこと?

【京都】陰陽師・安倍晴明の子孫の墓ピンチ 京都、連絡取れず寺が供養 安倍晴明の子孫土御門家は代々陰陽師として朝廷に仕え後には普通の貴族として存続したはずですよ。明治維新後には子爵となったはず。 その子孫がいないって本当にあるんですか?探せば絶…

出たよまた嘘歴史(呆)

【宮崎】国内最古の鮫皮巻大刀 宮崎で出土、朝鮮半島製[10/25] ★2 あのさ、鮫皮巻太刀が朝鮮半島製だという学問的根拠は?それに朝鮮半島南部で作られたとしても現在の朝鮮人とはまったく関係ないぞ。 半島南部には昔から日本人が住んでいた。支那江南地区か…

サファヴィー朝Ⅱ  神童

第5代教主ジュナイドの時代、サファヴィー教団軍事力の中核となったアナトリアのトルコ系遊牧民たちをキジルバシ(赤い頭)と呼びました。これは彼らが、尖がった赤い帽子の周りに12イマームを象徴する12の襞があるターバンを巻いていたからです。 彼らはセ…

出雲源氏塩冶(えんや)氏

※家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 この記事は、北近江浅井三代記に登場する浅井氏の旧主家北近江・出雲・隠岐・飛騨守護佐々木京極氏の外伝です。一般の方にはマニアックすぎてついてこれないかもしれませんが、私はこの記事のためだけに『島根県の歴史…

北近江浅井三代記Ⅸ  浅井氏の滅亡

元亀三年(1572年)10月、甲斐の武田信玄はついに上洛の軍を発します。総勢三万三千。ただし信濃から美濃に侵攻した秋山信友勢、別働隊として三河に直接向かった山県昌景勢を含めての数で、信玄が直接率いた兵は二万七千でした。信玄来るの報を受けた徳川家…

北近江浅井三代記Ⅷ  信長の危機

浅井三代記と言いながらここのところ信長中心の記述となっていますが、当然のことで時代は信長を中心に回っていました。もう一方の極には将軍足利義昭。本来なら越前を中心に60万石余を領する朝倉義景が一方の中心に立つべきでしたが、義景は生来の優柔不断…

北近江浅井三代記Ⅶ  姉川の合戦

浅井長政の裏切りで窮地に立った織田信長。しかし撤退の決断が早かったため京都に戻った時もまだ三万近い大軍を擁していました。長政は、以後歴史の主役となりえず信長、朝倉義景、足利義昭らに翻弄される人生となります。 さて信長ですが、態勢を立て直すた…

北近江浅井三代記Ⅵ  決別

永禄十一年(1568年)九月、足利義昭を奉じた織田信長は、徳川勢浅井勢を加えた六万と号する大軍で上洛の途に付きました。義昭上洛を助けるよう越前の朝倉氏、近江の六角氏に使者を送りますが朝倉氏は無視、六角氏に至っては三好三人衆と同盟していたため露…

北近江浅井三代記Ⅴ  お市の方

お市の方、織田信秀の五女で信長と同じ土田御前が生母だと言われます。ただし信長とは13歳離れており異母妹の可能性が高いともされます。美人が多いと言われる織田家でも絶世の美女として有名でした。私は浅井長政が野良田合戦で完全に六角氏と手切れになり…

北近江浅井三代記Ⅳ  長政登場

よく軍記物や歴史小説で、浅井長政が信長を裏切った理由として朝倉氏との三代の友誼をあげています。長政は信長と同盟を結ぶ時、大恩のある朝倉家を決して攻撃しないと信長に約束させたのに信長がそれを反故にし越前攻めを開始したため苦渋の決断で朝倉方に…

北近江浅井三代記Ⅲ  久政の時代

浅井亮政が浅井氏嫡流ではなく、嫡流直政の一人娘蔵屋の婿養子となって宗家を継いだ事は前回書きました。しかし蔵屋との間には鶴千代という娘しかできませんでした。亮政は、この鶴千代に同じ浅井庶家の田屋氏から婿明政を迎え後を継がせるつもりでした。お…

北近江浅井三代記Ⅱ  京極氏根本被官浅井亮政

※家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 京極氏を北近江半国守護と書きましたが、実際は六角氏が近江全体の守護職で京極氏の勢力圏である北近江6郡は守護不入の地として京極氏が守護の権能(軍事警察権)を代行したそうなのです。ですから正式な半国守護ではな…

北近江浅井三代記Ⅰ  浅井氏の登場

浅井氏と言えば、織田信長の妹お市の婿浅井長政が有名です。最初は信長の協力者として、次に越前攻めをきっかけに信長の敵対者として苦しめ、最後は織田の大軍に本拠小谷城を落とされ切腹しました。信長の怒りは凄まじく、長政とその父久政、越前の朝倉義景…

斎藤道三Ⅴ  長良川に散る

さしもの斎藤道三も、今度ばかりは織田信秀率いる連合軍の攻勢の前に劣勢を余儀なくされました。連合軍は西美濃の要衝大垣城を落とし稲葉山城に迫ります。さすがに稲葉山城は長井豊後守利隆が築城し斎藤道三が大改修を加えていたため一朝一夕で落ちる城では…

斎藤道三Ⅳ  宿敵

美濃守護土岐頼芸は暗愚な人物でした。西村勘九郎(=斎藤利政=道三)のおかげで美濃守護職と土岐家督を得たのですが、彼自身は政治に興味が無くすべてを勘九郎に任せます。勘九郎はすでに入道し斎藤道三と名乗っているので以後道三で通します。 頼芸が要害…

斎藤道三Ⅲ  美濃乗っ取り

美濃国の守護所は、美濃国第三代守護土岐政康が築城して以来革手(川手、岐阜市正法寺町)城でした。平城でしかも居館造りでありながら旧木曽川と荒田川にはさまれた天然の要害で、守護の統治所としてふさわしい場所です。城下町川手は繁栄し、キリスト教宣…

斎藤道三Ⅱ  松波庄五郎美濃入り

現在の岐阜県は北の山岳地帯飛騨国と南の美濃国に分かれます。飛騨が太閤検地でわずか4万石弱だったのに対し美濃は54万石、実高で65万石あったとも言われる大国でした。これより大きい国は近江(78万石)、武蔵(67万石)くらいしかなく、日本有数の豊かな国…

斎藤道三Ⅰ  出自の謎

※家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 斎藤秀龍入道道三、歴史に興味が無くともある程度の一般教養がある方なら名前くらいは聞いた事があるでしょう。少し日本史に興味のある人なら、織田信長の正室濃姫の父、あるいは一介の油商人から成りあがり下剋上を重…

戦国大名駿河今川氏Ⅷ  今川氏の滅亡

今川義元の横死は今川領国に衝撃を与えます。特に過酷な占領地支配で苦しんでいた三河では、松平広忠の息子松平元康が自立の動きを見せていました。桶狭間の合戦時、今川軍の武将として大高城に入っていた元康は、駿府に帰還せずかつての居城岡崎城に入城し…

戦国大名駿河今川氏Ⅶ  今川義元の登場

※ 今川義元木像 今川氏親が家督を相続し嫡男氏輝を次の後継者と定めた後、氏輝の弟たちは嫡流、庶流関係なく皆仏門に入れられます。これは幾度も繰り返された家督相続をめぐる内乱を避けるためでした。氏輝の同母弟芳菊丸もわずか4歳で富士郡瀬古の善得寺に…

戦国大名駿河今川氏Ⅵ  今川仮名目録

※ 今川氏親木像 分国法といえば、戦国大名が自分の領国内を統治するために制定した法律で、例えば幕府の出した法令より優先するため、これを持って戦国大名の始まりとする見方があります。早くは周防の大内氏壁書、越前の朝倉孝景条々、肥後の相良氏法度など…

戦国大名駿河今川氏Ⅴ  伊勢新九郎

※家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 今川家第6代当主、駿河守護義忠(1436年~1476年)。父範忠の代に起こった家督相続を原因とする内乱の傷もようやく癒え、駿河今川氏は宿願だった遠江国守護職の奪還を目指し行動します。今川了俊失脚で斯波氏に奪われた…

戦国大名駿河今川氏Ⅳ  今川氏の内訌

九州探題として足利将軍家を凌ぐ力を持った今川了俊は、三代将軍義満の逆鱗に触れて失脚。駿河守護には甥の泰範が単独で指名され、以後彼の子孫が今川氏嫡流として駿河を支配しました。その駿河に最初の危機が訪れます。すなわち上杉禅秀の乱でした。 犬懸上…