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戦国大名駿河今川氏Ⅴ  伊勢新九郎

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家系図武家家伝播磨屋さんから転載

 今川家第6代当主、駿河守護義忠(1436年~1476年)。父範忠の代に起こった家督相続を原因とする内乱の傷もようやく癒え、駿河今川氏は宿願だった遠江国守護職の奪還を目指し行動します。今川了俊失脚で斯波氏に奪われた遠江守護職ですが、了俊の子孫は遠江今川氏として当地に土着し、駿河今川氏の有力な藩屏となりました。中でも了俊から数えて4代目の範将(?~1464年)などは、今川軍の有力武将として活躍、遠江においても斯波氏の守護代甲斐氏と抗争するなど遠江に大きな影響を与えます。
 
 その他、久野氏、小笠原氏などは斯波氏が守護となっても今川方として活動しました。反対に斯波氏が守護となって以降、今川支配に反発を持っていた国人層は斯波氏方に付きました。なかでも有力な南朝方だった井伊谷の井伊氏は、斯波氏の先兵として遠江から今川勢力駆逐を目論みます。
 
 当時の守護は、まだ領国の一円支配を完成しておらず当初の職掌であった軍事警察権のみ行使していました。それすらも遠江では怪しく、今川氏と斯波氏が戦争になったら国内が二分する事は必定だったと思います。そんな中応仁元年(1467年)全国を巻き込んだ応仁の乱が勃発しました。遠江守護斯波義廉が山名方に付いたのを見て、今川義忠は躊躇なく細川方に味方します。義忠は小笠原・朝比奈・庵原・葛山など有力国人を従え上洛しました。
 
 戦いは泥沼になり膠着します。文明二年(1470年)東軍総帥・管領細川勝元は将軍の命として義忠に本国駿河に帰って東海道斯波義廉方を討つよう伝えます。これは義忠にとって渡りに船でした。喜んで帰国した義忠は、大義名分を得て露骨に遠江への侵略を開始します。まず帰国途中に、狩野氏の拠点見付を攻め落とし、一族の堀越貞延(今川範将の子)に1000余騎を与え浜松近辺に進出させました。今川軍と斯波軍は遠江国内で激しくぶつかります。これで斯波義廉が西軍方の遠江守護、今川義忠が東軍の遠江守護となりました。後はどちらが敵を叩き出し実効支配するかです。
 
 ただ斯波義廉にとって不利だったのは、本国越前を細川勝元の策動で重臣朝倉孝景に乗っ取られ、残った有力領国尾張に至っては対立する斯波義敏と血みどろの戦いを繰り広げるなど、とても遠江に構っている暇がない事でした。義忠は有利に戦を進め、あと一歩で遠江完全支配を達成できるところまで行きます。ところが好事魔多し、見付城攻撃で大きな損害を出し一時兵を引こうとしていた時、突如起こった一揆の奇襲攻撃を受け、その時受けた矢傷がもとで現地で亡くなりました。
 
 一転、今川家は窮地に立たされます。義忠の嫡男竜王丸(のちの氏親)はわずか4歳。有力重臣三浦・庵原・朝比奈・由比氏らは竜王丸の今川家督継承を支持しますが、これに異を唱えた一派がいました。関口・新野・名児耶(なごや)氏らです。彼らが奉じたのは今川一族小鹿範満でした。前記事で書いた弥五郎範頼の子です。両者は一歩も引かず、駿河はまたしても大乱になる寸前まで行きました。
 
 これを心配した堀越公方政知は執事上杉政憲を派遣、相模守護扇谷上杉定正も家宰太田道灌を送り込みました。太田道灌は600余騎を率いて駿河に乗り込みます。竜王丸派、範満派は道灌の斡旋でようやく和議が成立しました。この時太田道灌の陣営に乗り込み直談判して話を纏めた者がいます。その名は伊勢新九郎。いったい彼は何者でしょうか?
 
 伊勢新九郎長氏(1432年~1519年)、最近の研究では盛時という名が定説です。諸説ありますが最大公約数的に言うと、幕府政所執事伊勢氏の一族。新九郎の家系は備前に領地を持っていたとされます。今川義忠が上洛中に妹北川殿が見染められ側室(正室という説も?)となりました。彼女の生んだ竜王丸を助けるために駿河に赴いたと言われます。もっとも、北条早雲という名が人口に膾炙していますね。ただ彼が生前北条早雲と名乗った事はなく、出家後の伊勢宗瑞が当時の名乗りです。宗瑞の息子氏綱が、関東支配に都合が良いからと初めて北条氏を名乗るのです。
 
 ここではまだ箱根の坂を越えていないので、伊勢新九郎で続けます。新九郎が太田道灌に示した調停案はこうでした。
 
1、義忠の実子である竜王丸の優位は動かない。
2、とはいえ若年の当主では今川家の統制は難しい。
3、小鹿範満は竜王丸成人まで後見人として守護職を代行する事。
4、竜王丸成人後は、守護職を譲り渡す事。
 
 新九郎の申し出は常識的な線であったので道灌も上杉政憲も納得、範満派も渋々ながらも矛を収めました。一時範満派に駿府を追われていた竜王丸とその母北川殿は、和議成立後も駿府帰還ができず志太郡小川郷焼津市)小川法栄の屋敷に身を寄せます。範満が、竜王丸成人後も守護職を手放す気がない証拠でした。
 
 それから苦節11年、新九郎は秘かに駿河国内で同志を集め機会を待ちます。長享元年(1487年)、突如蜂起した新九郎は手勢を率いて駿府の守護館を急襲、範満を討って竜王丸を駿府に迎え入れました。すでに新九郎により駿河の有力国人たちには根回しがされており、大きな反発は起こらなかったそうです。
 
 竜王丸は元服し氏親と名乗ります。伊勢新九郎は功績により富士郡下方十二郷を与えられ興国寺城(沼津市)を居城としました。戦国大名伊勢宗瑞のはじまりです。ここからの歴史は、今川家の歴史と直接関係ないので概略だけ示します。
 
 明応二年(1493年)、堀越公方政知死後後を継いでいた足利茶々丸を討って伊豆国を奪取。同四年(1495年)には相模小田原城主大森藤頼を騙し討ちして小田原城を奪いました。伊勢宗瑞は、この城に本拠を移し本格的な関東進出を始めます。
 
 驚くべきは、諸説ありますが伊勢宗瑞が箱根の坂を越えた年齢で、なんと60歳。しかもそれから20年以上も生きるのです。隠居したのではなく生涯現役、戦場に出陣しての活躍ですから驚かざるを得ません。こういうバイタリティがあったからこそ成し得た偉業なのでしょう。以後、小田原北条氏は5代を数え関東に君臨する巨大勢力に成長します。
 
 次回は今川氏親の領国経営と義元の登場までを描きます。