鳳山雑記帳はてなブログ

ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

越前守護代甲斐氏の没落

f:id:houzankaitachibana:20190904093811j:plain

 よほど日本史に詳しい方じゃないとご存じないと思いますが、甲斐氏は越前・尾張守護で三管領家室町幕府の最高職管領になれる家柄、斯波・細川・畠山氏のこと)斯波武衛家(斯波氏の嫡流)の執事(筆頭家老)を務めた家です。

 

 越前(現在の福井県の大部分)は北陸道随一の豊かな国で、太閤検地で49万石、その後の寛永検地では68万石を数えたほどでした。イメージから言うと越後(新潟県)が一番豊かそうですが、江戸初期まで越後国は荒蕪地や深田が多く40万石ほどしかありませんでした。土地改良や灌漑で100万石の米どころになったのは江戸中期以降です。ちなみに北陸道で越前に匹敵するほど豊かなのは越中国富山県)でこれも50万石を超える石高がありました。俗に加賀百万石と言われますが、その半分以上を占めていたのは越中国で、加賀と能登は合わせても越中の石高には及びませんでした。

 

 室町時代越前の守護を務めたのは斯波氏ですが、南北朝時代斯波高経が越前守護に任命され南朝方の有力武将新田義貞を打ち取った功からこの国の守護を世襲することとなりました。斯波氏は越前ともともとの本拠地尾張の二か国しか守護領国がありませんでしたが、どちらも50万石(江戸期の数字。当然室町時代はこれより低い)を超える大国でしたので、細川京兆家、最盛期11か国の守護を兼ねた山名氏と対抗できました。応仁の乱前には遠江守護職も得ますが、ここはもともと駿河今川氏の守護領国で後に奪い返されます。

 

 応仁の乱は、足利将軍家(義視と義尚)、畠山家(義就と政長)の家督争いが原因ですが、この斯波武衛家も例外ではなく第9代義健(よしたけ)に子がなく、一族大野斯波持種の子義敏を養子に迎えたところ、将軍義政がこれを認めず足利一門の渋川氏から義廉(よしかど)を強引に斯波武衛家の家督に押し込んだことも発端の一つとなります。

 

 義廉の斯波家督相続には執事甲斐常春(?~1459年)の暗躍があったと言われ、斯波氏の実権を義敏の実父持種に奪われることを嫌ったための工作でした。常春は斯波家執事の他に越前・遠江守護代を務めるほどの実力者で、越前においても持種の勢力圏である大野郡以外では圧倒していました。1452年、斯波武衛家第9代義健がわずか19歳で病死すると斯波氏の尾張守護代織田氏や他の重臣は斯波氏庶流義敏の家督相続を認めますが、常春は将軍義政の後押しを受け越前の有力国人衆を味方につけ義敏、その父持種一派と対立を深めます。

 

 この対立は長禄合戦と呼ばれる戦乱に発展。守護義敏方は勇将堀江利真の活躍もあり優勢になりますが、義敏が幕府の関東出兵命令を無視し守護代甲斐方の金ケ崎城を攻めたことで義政の激怒を買い、義敏から守護職と斯波武衛家家督を奪って周防に追放しました。結局長禄合戦は守護代甲斐方の勝利に終わります。この戦いで活躍したのが越前の有力国人朝倉孝景だと言われます。

 

 1461年9月、幕府の命で斯波武衛家家督は渋川氏出身の義廉に与えられました。とはいえこれは執事甲斐氏の傀儡にしかすぎません。面白くないのは追放された義敏、そして彼に味方した越前の豪族たちでした。甲斐氏では1459年常春が病死し、息子敏光が後を継ぎます。室町幕府は将軍家家督争いをしており、一方の雄、管領細川勝元は不遇の義敏に目を付けました。勝元の仲介で義敏は斯波武衛家家督と越前、尾張遠江守護職を回復します。哀れなのは義廉で、一夜にしてすべての実権を奪われ斯波家から叩き出されました。怒った義廉は妻の父である山名宗全邸に駆け込みます。

 

 斯波武衛家の家督を巡っても細川勝元山名宗全の対立は深まります。応仁の乱が勃発すると、義敏は勝元の東軍に参加、義廉は宗全の西軍に付きました。こうして越前、尾張遠江は東軍と西軍二人の守護を頂く異常事態に陥ります。ただ、実力者執事甲斐敏光が後ろ盾となった義廉方が有利で、特に越前では朝倉孝景の活躍もあり義敏方はほとんど逼塞しました。京都における戦闘でも、朝倉孝景は越前勢を率いて参戦、東軍方の足軽大将骨皮道賢を討ち取るほどの大功を上げます。

 

 劣勢の東軍総大将細川勝元は、この朝倉孝景に目を付けます。主家斯波義廉の頭越しに越前守護代職を与えることを餌に寝返りを勧めました。野心家だった孝景はあっさりと勝元の申し出を受け入れ義廉を裏切ります。東軍の越前守護は義敏ですから、義敏方の守護代におさまったのです。怒った甲斐敏光は越前に攻め込みました。以後越前では朝倉氏と甲斐氏が血みどろの戦いを繰り広げることとなります。守護代とは言え京都にいることの多かった甲斐氏と、一貫して越前に留まった朝倉氏の力関係は差が開くばかりでした。1472年8月、越前府中(越前市)を朝倉勢に落とされた甲斐敏光は、越前国を叩き出され加賀に逃亡します。

 

 その後も敏光は何度も越前に侵入を試みますがことごとく失敗。1481年朝倉孝景死去を受け攻め込んだ時も孝景の子氏景に大敗しました。応仁の乱は1477年に終わっていましたが、越前では依然として戦乱が続いていたのです。1483年和睦が成立し、越前は朝倉氏、尾張織田氏遠江は甲斐氏が守護代となることで決着しました。

 

 ところが、遠江はもともと今川氏の守護領国で、斯波氏は勢力を扶植する前に今川氏に奪い返されます。結局一番馬鹿を見たのは甲斐氏でした。越前はそのまま朝倉氏の領国となり、尾張は斯波氏を傀儡とした織田氏が治めます。甲斐氏がいつ滅んだのか分かりません。甲斐氏は下野佐野氏の一族とも、肥後菊池一族の甲斐氏の流れともされますがはっきりしません。謎の一族だと言えますね。