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戦国大名駿河今川氏Ⅰ  その出自

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 長野県下伊那郡大川入山に端を発し岐阜県愛知県を流れ三河湾にそそぐ大河矢作川。古代より三河国(愛知県東部)の政治権力は矢作川に沿って発展していきました。国府のある豊川市近辺より矢作川流域を中心とする三河西部が栄えていたのもその証拠でしょう。

 三河に本格的な武家勢力が進出したのは鎌倉時代。下野(栃木県)の豪族足利氏が幕府の命で三河守護として赴任します。足利一族は三河に移住し、吉良、今川、一色、細川、仁木など多くの支族が生まれました。足利氏は守護所を矢作宿(岡崎市)に設けます。

 足利氏三代義氏(1189年~1255年)には二人の有力な息子がいました。すなわち長氏と泰氏です。順当に行けば長男長氏が家督を継ぐはずでしたが、生来の病弱で弟泰氏に家督を譲りました。哀れに思った義氏は、足利家の有力な領地である矢作川下流幡豆郡西條の吉良荘地頭職を譲ります。以後長氏の子孫は吉良氏を名乗りました。

 このような経緯から吉良氏は、足利宗家から一目置かれる存在となり室町時代には「足利将軍家が絶えたら吉良が継ぐ」と言われるほどでした。ただ似たような話が泰氏時代にもあり、子の家氏(斯波氏の祖)と頼氏の家督継承問題が起こります。要は時の権力者鎌倉幕府の執権、北条得宗家との関係で家督相続が決まるために、本来継ぐべき者が継げなくなったというだけでした。おそらく類似した話が他の有力御家人の間でもあったかもしれません。

 吉良荘を継承した長氏は、領地経営に腐心し生涯を終えます。死に際し長男満氏に吉良荘を、次子国氏に隣接する今川荘を与えました。今川荘は現在の愛知県西尾市今川町を中心とする一帯です。この国氏が今川氏の祖となります。足利一門の中では、斯波氏(尾張足利氏)と同じく家格の高い一族でした。

 今川氏の名前が史書に出てくるのは、三代範国(1295年~1384年)からです。範国は足利一門の有力武将として当主尊氏(当時は高氏)の下で元弘の変以来各地を転戦しました。中先代の乱では鎌倉を追われてきた尊氏の弟直義を吉良貞義(満氏の子)とともに三河国矢作に迎え、中先代軍の攻撃を防ぎ足利尊氏の本隊が到着するまで戦線を支えます。

 以後尊氏が鎌倉に向かった時も三河に残り、新田義貞率いる尊氏追討軍を三河国で防ぎました。ただこの時は新田軍が大軍であったため衆寡敵せず敗走します。義貞を追って尊氏が上洛した時範国もおそらく従ったのでしょう。その後、背後から奥州の北畠顕家軍が襲いかかったため足利軍は京を追われ九州に逃れます。範国も他の足利一門と同様九州に落ちたと思われます。あるいは本国三河でゲリラ戦を続けたという可能性も捨てきれませんが…。

 九州で勢力を蓄えた尊氏は、少弐、大友、島津ら九州の有力豪族を糾合し十万とも号する大軍で逆襲に転じます。1336年摂津湊川の合戦で宮方を破った尊氏は再び京都に入りました。後醍醐天皇大和国吉野に逃れ本格的な南北朝時代が到来します。尊氏は、京都と鎌倉を結ぶ東海道諸国の重要性に鑑み今川範国に1336年遠江守護、次いで1338年には駿河守護職を与えました。これが今川氏と駿河の関係した最初です。

 次回は、範国の駿河入部と統治を描きます。