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斎藤道三Ⅰ  出自の謎

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家系図武家家伝播磨屋さんから転載

 斎藤秀龍入道道三、歴史に興味が無くともある程度の一般教養がある方なら名前くらいは聞いた事があるでしょう。少し日本史に興味のある人なら、織田信長正室濃姫の父、あるいは一介の油商人から成りあがり下剋上を重ねついには美濃(岐阜県の主要部)一国を乗っ取った戦国武将としてご存じだと思います。
 
 斎藤道三とその娘婿織田信長の生涯を描いた国民的歴史作家司馬遼太郎の『国盗り物語』はあまりにも有名ですよね。ところが近年(といっても1960年)古文書「六角承禎条書写」などから美濃乗っ取りは道三一代ではなくその父松波庄五郎との二代に渡る事跡ではないかという説が出され、有力になってきています。
 
 私は今回シリーズを書くに当たって、ネット上ではありますが道三美濃二代乗っ取り説を確認するため色々調べてみたんですが結論は出ませんでした。二代に渡っての乗っ取りかもしれないし、従来通り道三一代で成し得た事だとも言えます。道三の父と言われる松波庄五郎の業績が今一見えてこないのです。あくまで文書上に名前が出てくるだけ。これは『岐阜県の歴史』(山川出版、1970年)を記された中野効四郎氏も同じ見解らしく、同書ではあえて『美濃国諸旧記』などを出典とする従来説を書かれています。
 
 という事で、本シリーズでも『岐阜県の歴史』の記述に準拠して進めていこうと思っています。さて、斎藤道三は生涯で何度も名前を変えていることで知られます。最初は松波庄五郎(小説などでは庄九郎となっていますよね)。次に仏門に入れられ法蓮坊。還俗し京都山崎の豪商奈良屋に婿入りして奈良屋庄五郎。そこから自分の店として山崎屋庄五郎。美濃守護代長井長弘に仕え西村勘九郎。美濃守護土岐頼芸(よりあき)に仕え長井新九郎規秀。次いで守護代となり斎藤利政。守護頼芸を追放して斎藤秀龍。最後に出家して道三。
 
 名前を変えるたびに、それまで恩を受けた主家を乗っ取り、あるいは追放し、時には殺し、その阿漕な手法から世間は蝮の道三と呼び忌み嫌いました。ただ、逆に悪の魅力があるのも事実。たしか司馬遼太郎が書いていたと記憶しますが、普通はこういう悪逆非道の人間は世間に嫌われ自滅する。しかし次々と悪事が成功していったのには、本人にどこか憎めない可愛げがあったのではないか?と。清朝を乗っ取った袁世凱もそんな感じだったそうです。袁世凱の写真を見れば納得できますよね。
 
 道三が出た松波家は、代々北面の武士を務める山城国乙訓郡西岡の小豪族でした。道三の生年ははっきりしませんが応仁の乱が終わって戦国時代に突入した明応三年(1494年)頃だと言われます。幼名峰丸。北面の武士程度では生きられなかったのでしょう。峰丸少年は11歳の時京都日蓮宗の巨刹妙覚寺に入れられました。法連坊と名付けられ日善上人に弟子入りします。この時2歳下の兄弟弟子南陽坊と親友になりました。
 
 南陽坊は美濃国守護代長井豊後守利隆の弟でした。この関係は後々大きな意味を持つようになりますが、ここでは触れずに先に進めます。法蓮坊は生来の聡明さからめきめきと頭角を現しました。ところが実家に力が無いためこれ以上妙覚寺での出世が難しくなります。一方、親友南陽坊は美濃に帰り厚見郡泉村岐阜市)常在寺の住職に迎えられ日運(小説では日護)上人と名乗りました。常在寺は美濃守護代斎藤氏、長井氏(両者は同族)の菩提寺で、一門の中から仏門に入れ寺を継がせるのが慣習だったようです。
 
 これは地方の有力武士ではよくあることで、僧としての能力とはまったく関係ありませんでした。兄弟弟子南陽坊の事もあったのでしょう。妙覚寺での出世に見切りをつけた法蓮坊は還俗し元の松波庄五郎に戻りました。世は戦国時代、徒手空拳の若者にいったい何ができたでしょう?
 
 しかし庄五郎は諦めませんでした。いつの頃からか分かりませんが将来を見据えて武技の鍛錬だけは怠らなかったそうです。京都山崎の油商人奈良屋に婿入りした経緯ははっきりしませんが、国盗り物語では奈良屋の娘お万阿が賊に襲われていたところを助けた事がきっかけだったとされます。そんな事実もあったかもしれません。
 
 油商人と言っても、当時の荏胡麻(えごま)油は贅沢品で明かりに使用するなくてはならないものでした。大山崎八幡は全国の荏胡麻油の販売権を握っており、大山崎油座が支配していました。奈良屋も座に属する有力商人で、全国で巨利を上げていたと言われます。当時油商人は隊商を組んで全国各地に赴いていました。途中賊に襲われますから隊商自体も武装し、あるいは各地の有力豪族に礼金を払い守ってもらったりしていました。
 
 奈良屋庄五郎は隊商を率い全国各地で商売を行い、戦の駆け引きを学んだのだと思います。時には賊との間で小規模な合戦もあったかもしれません。その奈良屋がいつ山崎屋になったかですが、どうも庄五郎の商売自体が原因だったように思います。
 
 庄五郎は販路を拡大するため、大山崎油座の取り決めを無視することもあったようなのです。これが他の油座商人の反発を食らい大山崎八幡宮の神人達に襲撃され店が打ち壊されたと言われます。庄五郎は八幡宮と直談判し、屋号を山崎屋に変えることで商売続行を許されました。当然要路に賄賂を配るなど万全の事前工作は行ったでしょう。
 
 山崎屋庄五郎は、一時の危機を乗り越えますます商売で利益を上げ続けます。ですがこれで終わる庄五郎ではありません。さらに飛躍の機会を虎視眈々と狙っていました。次回、庄五郎美濃入りを描きます。