現在の岐阜県は北の山岳地帯飛騨国と南の美濃国に分かれます。飛騨が太閤検地でわずか4万石弱だったのに対し美濃は54万石、実高で65万石あったとも言われる大国でした。これより大きい国は近江(78万石)、武蔵(67万石)くらいしかなく、日本有数の豊かな国だったと言えます。しかも関ヶ原という要衝を持ち、畿内と東国を結ぶ重要な国でした。俗に「美濃を制す者は天下を制す」と言われたくらいです。
美濃国の守護は土岐氏。清和源氏の嫡流を継いだ河内源氏頼信の異母兄頼光から始まる名家で、頼光とその子頼国が共に美濃守を務めた事から美濃国土岐郡に土着しました。土岐氏を名乗ったのは、頼光の曾孫光信の時で、土岐郡土岐郷に住んだ事から、土地の名前を取って土岐氏と称したそうです。ちなみに同族に源三位頼政がいます。光信とは又従兄弟の関係でした。
源氏の有力者として鎌倉時代は北条氏に警戒されたそうですが、足利尊氏を助けて大功を上げ美濃守護職を得ます。室町時代を通じて美濃守護職を世襲しますが、応仁の乱の頃には当時の有力守護の御多分に洩れず家督争いでガタガタになりました。代わって台頭してきたのは守護代斎藤氏です。
斎藤氏は、藤原北家魚名七世の子孫藤原叙用(のぶもち)が斎宮頭に任じられた事から斎宮頭の藤原略して斎藤と称したのが始まりでした。斎藤氏の子孫からは加賀の冨樫氏や後藤氏などが出ます。斎藤氏と美濃の繋がりは斎藤帯刀左衛門尉親頼が美濃国目代(任地に赴かない遥任国司の代官)となったのが最初でした。
斎藤氏は、南北朝時代に美濃守護土岐氏に従って戦い守護代の地位を得ます。守護代斎藤氏で一番有名なのはなんといっても斎藤妙椿(みょうちん、1411年~1480年)でしょう。妙椿は斜陽の土岐氏を支え応仁の乱期の美濃を固めます。武蔵の太田道灌と共に当代一流の文化人でしたが武将としての力量もなかなかで、ついには主家土岐氏を凌ぐようになりました。室町幕府奉公衆となって従三位権大僧都という高位に登ります。主君土岐成頼は従五位でしたので、両者の関係が悪化するのは必然でした。
ただその対立が決定的になる前に妙椿は病死します。後を継いだのは甥で養子になっていた利国。ところが明応五年(1496年)守護代斎藤利国とその子利親が近江で戦死します。後を継ぐべき利親の子利良が幼少だったため、利親の弟で長井氏を継いでいた豊後守利隆が利良を後見し、守護代職を代行するようになっていました。
この美濃長井氏に関しては出自が謎で、斎藤氏の一族であることは間違いないのですが、もともとあった長井氏が断絶したために利隆が継承したという説、あるいは利隆の代に新たに長井氏を興したという説がありはっきりしません。
美濃国の実権は、守護土岐氏から守護代斎藤氏に移り、今は一族の長井利隆が権勢をふるうようになりました。そして永正十二年(1515年)利隆が死去すると、息子藤左衛門尉長弘は実権を守護代利良に返さず事実上守護代のように振る舞います。もっとも好意的見方もあり、頼りない利良に代わって美濃国を支えただけだとも言えます。
松波庄五郎が美濃国に入った時は、このような情勢でした。庄五郎は最初常在寺に日運上人を訪ねます。かつての妙覚寺の兄弟弟子、法蓮坊が訪ねてきたと聞いた日運は狂喜してこれを迎えました。田舎にいては中央の情勢に疎くなり、話の合う教養人もほとんどいなかったため日運は高度な会話ができる者を渇望していました。親友であった法蓮坊、今は還俗して松波庄五郎は彼にとってうってつけの人物だったのでしょう。話は懐かしの思い出話に始まり、天下の情勢を論じはじめると、日運は庄五郎の話にどんどん惹き込まれて行きました。
歓談尽きぬ中、日運はふと庄五郎に尋ねます。
これに対し庄五郎は
隣国、しかも敵国である織田信秀に有能な庄五郎が仕えればますます美濃が危なくなると恐れた日運は必死に庄五郎を説得します。読者の皆さんはすでにお気づきと思いますが、これは庄五郎一流の手で相手に懇願されて美濃に仕官するという形を作るための策でした。
「庄五郎殿、そなたの力で美濃を支え、滅亡から防いでもらいたい」という日運の願いに応える形で庄五郎は仕官する事を承諾しました。
叔父で一族の長老日運上人の強力な推挙だったため、長井長弘も庄五郎を歓迎します。しかも庄五郎は教養だけでなく弁舌さわやか、武芸の嗜みもあり、長弘は守護土岐政房に推挙しました。ところが政房の嫡子政頼が反対しこの話は流れます。政頼からしたら、どこの馬の骨か分からない庄五郎に胡散臭さを感じていました。結果論ですがこの直感は当たりでした。しかし、美濃の人間が気付くのはあまりにも遅すぎたのです。
仕方なく庄五郎は、政頼の弟頼芸(よりあき)に仕えることとなります。頼芸も芸術好きで庄五郎と馬が合いました。庄五郎は頼芸の命で、名門西村家が絶えていたのを継いで西村勘九郎と名乗ります。