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斎藤道三Ⅳ  宿敵

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 美濃守護土岐頼芸は暗愚な人物でした。西村勘九郎(=斎藤利政=道三)のおかげで美濃守護職と土岐家督を得たのですが、彼自身は政治に興味が無くすべてを勘九郎に任せます。勘九郎はすでに入道し斎藤道三と名乗っているので以後道三で通します。

 頼芸が要害の地革手城に居られては困る道三は、頼芸のために長良河畔枝広に豪勢な居館を建てて住まわせます。頼芸はここで酒色にふけり趣味の書画に没頭しました。土岐一族には鷹の名画を描く者が多くいたそうですが、頼芸の描く鷹は特に有名で『土岐の鷹』として後世の評価が高かったそうです。代わって守護代斎藤道三稲葉山城で美濃の政務を執りました。

 枝広が洪水で流失すると、道三は濃尾平野北方の大桑城への移動を頼芸に勧めます。頼芸は後先も考えずこれに従い、道三を掣肘する者は美濃国に居なくなりました。さらに道三は、自分の権力掌握に邪魔だった頼芸の弟揖斐五郎光親、鷲津六郎光敦(みつのぶ)、八郎頼香、頼芸の嫡男一色小次郎頼秀らを頼芸に讒訴し遠ざけます。

 道三のやり方はあまりにも強引過ぎ、心ある美濃の国人たちに反発を受けました。反道三の蜂起は彼らの自発的なものがきっかけだったと言われますが、私は越前に亡命していた前守護政頼の影を見るのです。というのも、道三が美濃追放された直後、越前の朝倉、近江の六角、浅井、尾張織田信秀が連合して美濃に攻めかかったからです。連合軍は土岐政頼の守護復帰を大義名分にしていました。ただ首謀者は政頼だったとしても、実質的な指揮者は尾張織田信秀でした。この時信秀は七千の軍勢を動員します。

 反乱軍は邪魔者道三を追放したものの、これといった指導者に欠き、本来国を統治すべき守護頼芸は無能、それを補佐する守護代斎藤家も小守護代長井家も道三がすでに滅ぼしていたため大混乱に陥ります。連合軍に各地で敗北し美濃失陥は時間の問題となりました。ただ美濃を連合軍が落としたとしても前守護政頼が復帰する事はなかったと思います。織田信秀にとっては、美濃侵略の単なる口実に過ぎず、今度は美濃支配権を巡って朝倉・浅井連合軍や六角氏と信秀との間で合戦が起こっていたでしょう。

 こうなると侵略軍に対抗できる軍略を持っていた人物は一人しかいませんでした。美濃からの密使が京山崎に送られます。こうして斎藤道三は再び美濃の地に下りました。稲葉山城に入り美濃の軍勢を掌握すると、道三はまず戦意の低い浅井・朝倉連合軍と六角勢を叩きます。これを簡単に撃ち破ると織田勢と木曽川を挟んで対峙、激しくぶつかりました。信秀とて馬鹿ではありません。道三のもとで一つにまとまった美濃国は簡単に滅ぼせなくなったと悟ります。さらに他の連合軍が敗退し尾張勢だけが孤立する形になった今、これ以上の戦の継続は無駄だと考え、さっさと道三と和睦し兵を引きました。

 こうして美濃を取り戻した道三ですが、前回の失敗に懲り国人たちの懐柔を進めます。道三の活躍を見た国人たちの中にも、戦国の世で美濃を保つには悪人であっても道三しかいないと考える者たちが出てきました。その中でも有力だったのが土岐一族の明智氏で、当主光綱は妹を道三に嫁がせ姻戚関係となります。この女性が道三の正室小見の方で、彼女との間に濃姫帰蝶)が生まれました。他に道三は深芳野との間に喜平次、孫四郎という男子をもうけます。

 道三は、さらに美濃の有力国人西美濃三人衆稲葉一鉄、安藤伊賀守、氏家卜全、あるいは日根野備中などを味方につけます。天文十一年(1542年)これらの軍勢をひきつれた道三は、突如土岐頼芸の居城大桑城を囲みました。道三は頼芸に引退を強要します。軍勢の力に恐れをなした頼芸は、城を明け渡し尾張織田信秀を頼って落ちて行きました。

 美濃は完全に道三の手中に入ります。が、息子義龍が頼芸の胤である事は周知の事実だったため義龍を名目上の守護に奉じ稲葉山城に入れました。道三本人は鷺山城を居城とします。一介の油売りがついに一国を得たのです。こうして美濃国主となった道三ですが、事はそう簡単に収まりませんでした。

 天文十三年(1544年)、織田信秀土岐頼芸を奉じて美濃へ侵攻を開始します。この時も信秀は、越前の朝倉、北近江の浅井、南近江の六角氏と語らい道三を挟み打ちしました。信秀率いる織田勢九千、朝倉氏なども大軍を集め総勢は二万を数えたという説もあります。絶体絶命の危機でした。信秀はすでに美濃国内にも調略の手を伸ばし氏家、稲葉、不破、伊賀氏らが信秀に付きます。

 道三はこの危機をどのように脱するのでしょうか?次回最終回道三の最期を描きます。