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斎藤道三Ⅴ  長良川に散る

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 さしもの斎藤道三も、今度ばかりは織田信秀率いる連合軍の攻勢の前に劣勢を余儀なくされました。連合軍は西美濃の要衝大垣城を落とし稲葉山城に迫ります。さすがに稲葉山城は長井豊後守利隆が築城し斎藤道三が大改修を加えていたため一朝一夕で落ちる城ではありませんでしたが、連合軍の跳梁跋扈を美濃で許す事は、道三陣営の国人たちの動揺を招くため放置するのは危険でした。

 八方塞の道三は、織田信秀に和睦を申し入れます。その条件は土岐頼芸を揖斐城に迎え入れ、越前に逃れていた政頼の子頼純を大桑城に迎え自分は政治の実権を返上するというものでした。さらにそれを保障するため、正室小見の方の生んだ濃姫帰蝶)を信秀の嫡男信長に嫁がせる事も合意されました。

 道三が狡猾だったのは、頼芸だけでなく正当な土岐家督・美濃守護職の権利がある嫡流の頼純も同時に迎え入れた事です。これで美濃の権威は二分し、道三復活の目も十分にありました。織田信秀は道三の策を見抜きますが、この頃駿河今川義元三河の支配権を巡って激しく戦っていたため道三とは和睦の必要があり黙認します。

 宿敵織田勢が美濃を去ると、反道三勢力は道三の裏切りを警戒し大桑城に頼純だけでなく頼芸も籠城させました。しかしこれは、逆に道三に協定破りという攻撃材料を与える愚策となります。天文十六年(1547年)8月道三は軍を率いて大桑城を急襲、正当な土岐家督と美濃守護の資格を持つ頼純を戦死させました。頼芸は命からがら脱出し越前に亡命します。平安中期以来美濃に君臨した名門美濃源氏土岐氏はこの時滅亡しました。

 天文十八年(1549年)2月、道三は約束を守り愛娘濃姫を隣国尾張織田信秀の嫡子信長に嫁がせます。輿入れの前夜、道三は娘に形見の懐剣を与え
「もし婿の信長が噂通りのうつけであったら、この懐剣で刺し殺せ」と話します。すると濃姫はにっこり笑い
「もしかしたらこの剣は、父上を刺す刃になるやもしれませぬ」と答えたと言われます。すると道三は呵々大笑し「流石は蝮の娘だ」と頷いたそうです。

 もちろん史実の可能性は低いですが、そういう父娘の会話があったかもしれないと思うと歴史は面白いですね。この時信長16歳、濃姫は15歳でした。

 天文二十年(1551年)道三生涯の宿敵織田信秀が急死します。後を継いだ信長はうつけの噂も高く、道三はあわよくば信長を殺して尾張を奪おうと会見を申し込みました。両者は美濃国境近い尾張正徳寺で会う事に合意します。道三は、信長が暗愚であったらその場で暗殺するつもりでした。会見の前、信長の行列を見ようと道三は秘かに街道上の民家から覗きます。先頭を行く馬上の信長はだらしない恰好で、髷は荒縄で縛り瓢箪を下げ柿を食べながら進んでいました。やはり噂通りのうつけだったかと道三は帰ろうとしますが、その後に続く行列を見て仰天しました。

 一隊は道三が戦で工夫した長さ三間半の長槍を装備し、別の部隊は五百の鉄砲を装備していたからです。当時鉄砲は新兵器でまだまだ実戦での効果は分かっていませんでした。値段も高価で田舎大名が簡単に揃えられる代物ではありません。さらに会見では、それまでの格好とは打って変わり見事な正装で現れた信長を見て絶句します。会見後道三は、側近の猪子兵助に向かい
「我が家の子供たちは、いずれ信長の軍門に馬をつなぐことになろう」と呟いたそうです。

 一旦人物を認めると道三は信長に好意を見せました。この頃信長はまだ尾張を統一していませんでしたが、道三は使者を送り「もし戦で城を開けるときは、わが美濃から加勢を送ろう」と申し出たのです。信長は蝮と恐れられる舅の好意を複雑な感情で受けたと想像しますが、自分に好意を持ってくれている事だけは感じ取りました。実際、実の兄弟や一族ですら信用出来なくなっていた信長も舅道三だけは好きになったのかもしれません。

 斎藤道三は、織田家と和睦が成りようやく平穏な時を迎えたかに見えました。ところが稲葉山城で名目上の守護だった息子義龍が、自分の出生の秘密を知ります。父と思っていた道三が実は本当の父頼芸の仇だと知り義龍は激高しました。土岐家の旧臣たちもある事ない事吹きこんだため、義龍は道三一族排除を決意します。

 ある時、義龍は病気と称し引きこもりました。家督相続について相談があると弟孫四郎と喜平次を稲葉山城に呼び寄せた義龍は、日根野兄弟に命じて殺させます。実は道三は、機会を見て頼芸の胤である義龍を除き、実の子孫四郎を後嗣にする腹でした。義龍に先手を打たれたのです。事件を知った道三は当然怒ります。

 義龍を討とうと美濃全土に動員令を下しました。一方義龍も同じく兵を集めます。ところが義龍は明朗快活な性格で人望厚く、何より正当な土岐家の血を引くという事で美濃国人の支持を集め一万二千もの軍勢が集結しました。道三は所詮他所者で、これまでの数々の悪事からわずか二千の兵しか集まりません。道三は自らの運命を悟りました。

 弘治二年(1556年)4月、鷺山城での籠城策を捨て道三は二千の兵と共に出撃、長良川に陣を布きます。義龍も呼応し両軍は長良川を挟んで激しくぶつかりました。しかし多勢に無勢、道三勢は多くが打ち取られ敗走します。道三にとどめを刺したのはかつての側近小牧源太だったと伝えられます。織田信長も舅道三を救うべく出陣していたそうですが、義龍勢に阻まれ木曽川を越える事ができませんでした。

 一代の梟雄斎藤山城入道道三、享年62歳。死の間際、道三は信長宛に美濃国の譲り状を書いたそうです。史実かどうかは分かりませんが、天下統一の夢は娘婿織田信長に委ねられました。信長が稲葉山城に入り美濃を平定するのは、それから11年後の永禄十年(1567年)の事です。




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