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北近江浅井三代記Ⅳ  長政登場

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 よく軍記物や歴史小説で、浅井長政が信長を裏切った理由として朝倉氏との三代の友誼をあげています。長政は信長と同盟を結ぶ時、大恩のある朝倉家を決して攻撃しないと信長に約束させたのに信長がそれを反故にし越前攻めを開始したため苦渋の決断で朝倉方に寝返ったというものです。

 ところが、浅井氏と朝倉氏との間には直接援助を受けた歴史がほとんどありません。もちろん美濃への干渉戦争には六角氏とは別行動、浅井氏は朝倉氏と連合して行動しています。これは浅井氏があくまで北近江守護京極氏の名代として行動しているためで、京極氏と同族とはいえ犬猿の仲の六角氏と一緒に動くわけにはいかなかったからでした。

 六角氏が北近江に攻め込んだ時、朝倉氏は援軍を送るどころか六角氏と結んで侵攻の動きすら見せていました。『浅井氏三代』(宮島敬一著)では、長政が朝倉方についた理由として、信長が妹婿の長政を同盟者ではなく格下の臣下扱いしたことに憤慨したからだと考察しています。私もその可能性は高いと思います。さらに言えば、信長の従来の権威を蔑ろにする急進性、特に将軍足利義昭に対する態度に不安を覚えた事も大きかったのでしょう。

 浅井長政とは、どのような人物だったのでしょうか?天文十四年(1545年)浅井久政の嫡男として生まれた長政は15歳の時元服六角義賢から偏諱をうけ賢政と名乗ります。永禄二年(1559年)の事です。同時に六角氏の家臣平井定武の娘を正室に迎えています。ところが4カ月もしないうちに平井氏と離別、六角氏と手切れを宣言しました。当主で父の久政に相談せずに成された行動だったために、父子の対立が深刻化したと言われます。

 わずか15歳の少年に重大な決断ができたでしょうか?『浅井氏三代』では浅井家臣団の総意だったとします。六角氏従属路線の久政に対し、北近江国一揆が源流の浅井家臣団が猛反発し賢政を担ぎ出したというのが真相でしょう。浅井氏家臣団の動きを主導したのは、赤尾氏や磯野員昌だったと言われます。彼らは長政時代の浅井家臣団の中核となって行きました。

 六角氏との手切れ、久政の隠居、賢政が長政と改名し家督相続したのは一連の流れだったのでしょう。六角家ではこの頃当主義賢が家督を息子義治に譲り出家して承禎と名乗りました。ただ実権は承禎が握ったままで、実態は何も変わりません。承禎は裏切った浅井氏を許しませんでした。

 長政もこの事は覚悟の上で、坂田郡南部の一族今井定清に命じて守備を固めさせます。永禄三年(1560年)六角軍はついに動きました。承禎は事前に北近江の旧守護家京極高吉を誘うなど周到な準備をしています。先陣に蒲生賢秀(氏郷の父)、永原重興、二陣に楢崎壱岐守、和田玄蕃ら。承禎は馬廻と後藤、箕浦らの軍勢を従え後陣に控えました。総勢二万五千と号する大軍です。

 兵数は当然誇張があるでしょうが、六角氏の石高(50万石強)を考えると二万近い大軍だった事は確かでした。六角勢は、愛知川を渡り浅井氏の最前線肥田城を攻めるべく野良田に布陣します。急報を受けた長政は五千の手勢と共に小谷城を進発、野良田表で激しくぶつかりました。これを野良田合戦と呼びます。

 最初、数に勝る六角軍が優勢で長政は一時死を覚悟したそうです。安養寺氏秀、今井氏直らを本陣に呼び「南北分け目の決戦だから命を惜しむな。敵は勝ちに乗じて攻めかけてこよう。おそらく先陣は疲れているはず。新手を持って迎え撃つべし。敵に動揺が見えたなら我は本陣を衝く」と命じます。長政は部隊を二つに分け、一方を敵の先陣蒲生賢秀勢に当たらせました。蒲生勢は、長時間の戦の疲労からこれを支えきれず敗走します。そして六角勢に隙が生じたのを長政は見逃しませんでした。精兵を率い火の出るように敵本陣に突撃したため、承禎は驚き大混乱に陥ります。承禎は命の危険を感じ逃げだしました。総大将の逃亡は全軍の大潰走となります。長政は、打ち取った首920という大勝利を上げました。

 以上は「江濃記」に記された記述ですが、冷静に考えた場合五千と二万なら疲労するのは兵数が圧倒的に少ない浅井側ではなかったかという疑問がわきます。劣勢でただでさえ少ない兵力なのに兵を分ける余裕が浅井勢にあったかどうか?いくら長政が武勇で浅井勢が精兵だったとしても数の差を覆すことは至難の業。ここから導き出せる事は、よほど六角側の戦意が低かったとしか思えません。怒りをもって兵を挙げた六角承禎ですが、六角家中は嫌々参陣していたと解釈するのが自然なような気がします。後年、織田信長が上洛した時六角氏の本拠観音寺城が意外にあっさり陥落したのもこの辺りに理由があるのかもしれません。六角氏は領国内の家臣団統制に失敗していた可能性があります。

 真相はともかく、野良田合戦の勝利で浅井長政は六角氏からの独立を勝ち取りました。しかし戦国の世、わずか20万石足らずの小大名が生き残るにはどこか強大な勢力と同盟しなければなりません。朝倉氏と友誼を結んだのはこの時期だったと想像します。そして長政は、尾張の新興勢力織田信長とも結ぶのです。
 
 次回、長政と信長の妹お市の方との婚姻を書きましょう。