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北近江浅井三代記Ⅶ  姉川の合戦

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 浅井長政の裏切りで窮地に立った織田信長。しかし撤退の決断が早かったため京都に戻った時もまだ三万近い大軍を擁していました。長政は、以後歴史の主役となりえず信長、朝倉義景足利義昭らに翻弄される人生となります。

 さて信長ですが、態勢を立て直すために本拠岐阜城に帰る必要がありました。ところが最短距離の東山道は途中佐和山城を浅井方の磯野員昌が守っていたため一合戦しない事には通れず、違う道を進まなければいけません。信長が目を付けたのは鈴鹿山脈千草越えのルートでした。ここは旧六角方の蒲生賢秀の領地でした。賢秀は主家六角氏が観音寺城を捨てた後も本拠日野城に籠城し抵抗の構えを見せます。織田方だった賢秀の妹婿神戸具盛が単身日野城に乗り込み説得、ようやく信長に降伏しました。賢秀は嫡子鶴千代(後の氏郷)を人質に差し出します。信長は賢秀の忠義と鶴千代の利発な事を気に入り重用しました。

 途中の安全を確保するため、信長は守山城守山市)に稲葉一鉄を入れます。六角承禎は信長の帰国を妨害しようと兵二万を集めました。この時は大規模な戦闘は起こらず、信長は滋賀郡宇佐山に城を築き森可成に守らせます。永原城野洲市)に佐久間信盛長光寺城(近江八幡市)に柴田勝家安土城観音寺城の間違いか?)に中川重政を置いて帰国の途に就きました。六角勢と浅井勢は連合してこれを阻止しようとしますが、蒲生賢秀が救援に駆け付け千草越えに差し掛かります。

 ところがここで六角承禎の雇った杉谷善住坊に鉄砲で狙撃されました。幸い弾は信長の体をかすめただけでした。捕えられた善住坊は信長の怒りを買い鋸引きという残酷な方法で処刑されます。怨みは後々まで尾を引き、六角義定(承禎の次男)を匿ったとして甲斐の恵林寺は信長に焼き討ちに遭いました。有名な快川紹喜の「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」の言葉はこの時のエピソードです。肝心の六角承禎は信長の死まで逃げ切ったのですから悪運の強さはたいしたものでした。

 元亀元年5月21日、信長は困難の末ようやく岐阜城に戻ります。長政の裏切りから始まる信長包囲網、この一連の流れを裏から操ったのは将軍足利義昭でした。両者はいつから対立関係に入ったのでしょうか?私は将軍就任直後、義昭が信長に副将軍を打診した時だったと思います。信長はこれを断り代わりに堺・大津・草津の代官職を要求しました。足利幕府の再興を願う義昭と、義昭を傀儡にして天下統一を志す信長の方向性の違いは次第に両者を乖離させていきます。義昭は本願寺勢力とも結び南近江で一揆を起こさせました。六角承禎が二万の兵を集めた中には一揆勢がかなり含まれていたと見ます。だから織田勢と本格的戦闘には入れなかったのでしょう。

 6月4日、六角承禎は柴田勝家佐久間信盛そして旧臣永原、進藤などの軍勢と乙窪(野洲市)で合戦して敗れます。これが六角氏の組織的抵抗の最後でした。浅井長政は、信長の帰国を許した事でその後に来る織田家の大反抗を警戒します。小谷城の前面横山城の防備を固め大野木茂俊らを入れました。元亀元年6月19日信長は、三河徳川家康に援軍を頼み二万五千の兵で江北に入ります。

 織田勢は、小谷城の前哨陣地横山城に攻めかかりました。浅井長政はこれを放っておく事ができず朝倉氏に援軍を要請します。朝倉氏は朝倉景健を総大将とする一万の軍勢を派遣しました。長政も八千の兵を兵を率い城を出ます。

 浅井朝倉連合軍の出陣を知った信長は、横山城包囲の兵を残し軍を反転させました。兵法ではこれを後詰決戦と呼びます。両軍は姉川を挟んで対陣しました。両軍の兵力は諸説ありますが浅井朝倉方が一万八千、織田徳川方が三万余としておきます。6月28日、戦端が開かれました。緒戦、浅井方の先鋒磯野員昌が織田勢を押しまくり十三段あった陣構えのうち七段が撃ち破られたそうです。一方、織田勢の左翼で朝倉方と向かい合っていた徳川勢三千は敵前渡河に成功、横山城包囲から駆け付けた稲葉一鉄ら西美濃三人衆の軍勢と共に激しく攻め立てたため朝倉景健の本陣が崩壊、たまらず景健は敗走しました。

 優勢に戦を進めていた浅井長政ですが、朝倉勢が逃げだしたためこれ以上の戦闘継続を諦め撤退を決断します。織田勢はこれを追撃し八千ばかりを討ち取ったそうです。以上は信長公記その他に記された姉川合戦の顛末ですが、真相は小競り合いに過ぎなかったという説があります。というのは、この直後浅井朝倉方は数万の兵を擁し比叡山に立て籠もり信長と睨みあうからです。姉川で打撃が無かった証拠でしょう。ではなぜ後世このように伝えられたかというと、後に天下を取った徳川家康が自分の功績を誇るために話を盛った可能性が高いとされます。さらに浅井長政は三代将軍家光の外祖父にあたるため、朝倉方が敗走したため仕方なく負けたとしたかったのでしょう。さらに言うと、この戦いで活躍したと言われる稲葉一鉄の孫にあたるのが家光の乳母春日局でした。

 信長公記では、姉川合戦で討ち取られた浅井方の武将として真柄直隆父子、阿閉五郎右衛門尉など名ある武将をあげています。合戦の結果横山城は降伏、信長は横山城の城番として木下秀吉を入れます。秀吉は、横山城を拠点に浅井方の調略を進めました。織田軍は磯野員昌が籠る佐和山城に攻めかかります。しかし員昌が良く守ったため城は落ちず、信長は付け城を築いて丹羽長秀に守らせました。

 7月4日、上洛した信長は将軍義昭に戦勝報告します。義昭の心境は複雑だったと思いますが、信長としては義昭を恫喝したのでしょう。小谷城の目と鼻の先横山城が織田方に落ちたため浅井長政は守勢に回ります。しかし、状況はそう単純ではなく信長も苦しい局面に立たされました。

 次回、比叡山を巡る両陣営の戦いと信長の危機を描きます。