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北近江浅井三代記Ⅵ  決別

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 永禄十一年(1568年)九月、足利義昭を奉じた織田信長は、徳川勢浅井勢を加えた六万と号する大軍で上洛の途に付きました。義昭上洛を助けるよう越前の朝倉氏、近江の六角氏に使者を送りますが朝倉氏は無視、六角氏に至っては三好三人衆と同盟していたため露骨に敵対の態度を見せます。

 六角氏の反応は織り込み済みで、上洛の血祭りにするつもりでした。信長は、佐和山城で初めて浅井長政と対面します。佐和山城は、その前年長政が六角氏から奪った城で重臣磯野員昌が守っていました。織田勢は、愛知川を越え六角領に乱入します。六角承禎は本拠観音寺城を守る前哨陣地である和田城に山中大和守、田中治部、箕作城に吉田出雲守らを入れ守備を固めました。

 信長は、和田城を西美濃三人衆(稲葉、安藤、氏家)に任せると主力をもって箕作城に襲いかかります。大軍に兵法なしと言われますが、この時がまさにそうで余りの勢いの激しさに城はろくに抵抗できず落城。翌日には観音寺城攻撃に入ることが確実になります。するとその夜、織田勢に恐れをなした六角承禎、義治父子は城を捨てて逃げ出しました。

 ここが一番理解に苦しむところですが、観音寺城は後に信長が城を築く安土山に連なる標高432mの大規模な山城で、数万の大軍に攻められてもちょっとやそっとでは陥落しない難攻不落の城でした。それが一戦もせず逃げだすというのは、六角家中のまとまりが欠け内通者が出る事を承禎が恐れてではないかと推理します。野良田合戦の不可解な敗北も六角家の弱点を露呈したものだったのかもしれません。

 六角承禎は、甲賀郡に逃亡し以後ゲリラ戦で信長を苦しめます。六角氏の甲賀郡逃亡は承禎の祖父高頼以来の得意技で、9代将軍足利義尚の討伐もこれで凌いだほどでした。忍者の里甲賀とその南の伊賀国には六角氏が長年勢力を扶植しており、緊急時の逃げ込み先だったのです。その後六角氏は、愛知郡の鯰江城(東近江市)まで進出して来ます。

 上洛を急ぐ信長は、六角承禎を無視しました。観音寺城を接収したことで、近江の主だった武将後藤・永田・進藤・平井氏が降ります。新たに加わった旧南近江勢は一万もいたそうです。長政も信長に従い大津から滋賀越えします。京都を支配していた三好三人衆は織田の大軍を恐れ一戦もせずに退きました。易々と京都を占領した織田勢は、そのまま岩成友通の籠城する勝竜寺城を攻撃します。城は二日で陥落、岩成は逃亡しました。信長は勝竜寺城細川藤孝を入れます。

 信長は、山城、大和、摂津、和泉、河内など各地に軍勢を派遣し三好三人衆の勢力を攻めました。石山本願寺に矢銭五千貫、堺に二万貫を要求したのはこの時です。三好三人衆と行動を共にし足利義輝を暗殺した松永久秀はこの頃三人衆と対立していましたから、信長のもとに参陣し名茶器「九十九髪茄子」を献上して降伏を許されました。久秀は大和の旧領を安堵されます。

 三好三人衆は、信長の大軍に攻められ四国阿波に逃亡しました。信長は足利義昭の将軍宣下を見届けると一旦岐阜に帰国します。ところが信長不在の隙をついて三好勢が四国の兵八千を率いて義昭の居る六条本圀寺を奇襲しました。この時京に居たのは明智光秀勢などごく少数でした。京都に近い浅井長政が真っ先に駆けつけ、信長自身もわずか二日で援軍に駆け付けたため三好勢は敗退し、以後は活発な活動を止めます。

 信長は、二条城を将軍義昭のために築きました。それに前後し内裏の修理も行います。元亀元年(1570年)、信長は三万の大軍と共に上洛しました。名目は若狭の武藤氏討伐ですが、その真の目的は越前の朝倉氏でした。織田勢は琵琶湖の西岸を北上し金ヶ崎城を急襲します。城将朝倉景恒はたまらず降伏しました。織田勢はそのまま木ノ芽峠を越え、朝倉氏の本拠一乗谷を指呼の間に臨みます。

 この一連の軍事行動は、同盟者の浅井長政には無断で行われたものでした。浅井氏と朝倉氏の三代の友誼というのは『浅井氏三代』(宮島敬一著)では否定されていますが、それでも野良田合戦前後からの協力関係はあったはずで、長政に何の相談もなしに朝倉氏を攻める事は浅井家中にとっては裏切りと映りました。しかしこれは認識の違いで、信長は長政を格下の同盟者としか思っておらずいちいち相談する事はないと軽く考えていたのかもしれません。これは徳川家康にも言える事で、信長は長政を見誤っていたのでしょう。

 私は浅井氏を戦国大名というより北近江国一揆の盟主という立場から見ていますが、おそらく国人たちにとっては朝倉氏の方が隣国だけに馴染みが深く、信長に対しては反感を持っていた可能性を考えています。もしかしたら長政本人は信長を裏切る気はなかったかもしれません。ところが隠居していた父久政が国人たちに担ぎあげられ織田家との手切れを長政に要求しました。

 父久政と家臣たちに衝きあげられた長政は、信長との手切れという苦渋の決断をします。まともな判断力を持っていたら巨大な織田家との対立は滅亡の道でした。しかし浅井家の分裂を避けるためには、この道しかなかったのでしょう。軍記物や小説では、夫長政の裏切りをお市が両端を縛った小豆の袋を兄信長に贈って知らせたと言われますが、史実かどうかは確認できません。ただ、長政は律義者らしく信長に使者を送り朝倉方に付く事を申し送ったそうです。

 長政の裏切りを知った織田軍に動揺が走ります。決断の速い信長は、すぐさま撤退を決めました。この時木下藤吉郎秀吉が殿軍を申し出るという有名なエピソードがあります。朝倉軍と浅井軍に挟み撃ちされる可能性が高い殿軍は全滅の危険性が高いものでした。ただ秀吉には勝算があり、律義者の動員は遅れがちになるので時間差で逃げ切れると読んでいたとも言われます。

 浅井長政織田信長は、以後対立関係に入ります。その最初の激突が姉川の合戦でした。次回合戦に至る両者の動きを記します。