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源平合戦Ⅱ 鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀

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 平清盛正室時子の妹滋子(建春門院)と後白河法皇の間に生まれた高倉天皇高倉天皇の即位は、藤原摂関家六条天皇親政派の復活を阻止するために、清盛と後白河法皇の利害が一致した結果でした。

 清盛率いる伊勢平氏一門と後白河院政派の微妙な権力バランスは、1176年建春門院の病死で崩れ始めます。同年12月5日、院の近臣藤原定能、藤原光能蔵人頭に任ぜられました。蔵人頭とは定員二名の令外官律令には無い新設の官職)で、位階は未定(だいたい四位相当)ながら天皇の勅旨や上奏を伝達する秘書官的役割で天皇上皇に直接近侍するため時には摂関家以上の権力を握ります。

 これは後白河院政派の巻き返しでしたが、平家側も黙っておらず平重盛(清盛長男)を左大将、平宗盛(清盛三男)を右大将にしました。平家側は近衛府という衛門府とともに都の軍事警察権を司る武官の最高位(大将はだいたい三位相当)を握る事で、政治力に長けた院政派に軍事力で対抗しようとしたのです。

 平氏政権は、清盛の屋敷が京都六波羅にあったことから六波羅政権とも呼ばれますが、都の警察権を司る検非違使庁も握り、都の各地に間者を送りこんで敵対勢力の動静を探らせました。1177年、比叡山の大衆が強訴を起こします。後白河院は、御所の警護を清盛に命じました。これは平氏延暦寺の対立を煽る法皇の陰謀でした。しかし清盛は、四門のうち一つを源三位頼政に守らせることによって平氏延暦寺ではなく朝廷対延暦寺という構造を作り法皇の意図を挫きます。

 思慮深い頼政は、比叡山の大衆を上手くなだめ彼らを撤退させることに成功しました。これを白山事件と呼びますが、後白河法皇は事あるごとに平氏と山門の対立を煽り、その隙にクーデターを起こして都を制圧し清盛を失脚させようと願い続けます。この間様々な陰謀が渦巻くのですが、後白河法皇は山門の横暴許し難しとして1177年6月近衛府の左右大将だった重盛、宗盛兄弟に比叡山を討てと命じました。

 驚いた重盛らは、摂津福原に滞在していた父清盛に相談します。清盛も事態の重大さを見て急ぎ上洛。法皇に謁見し思いとどまるよう説得しました。ところが法皇の意思は固く清盛は押し切られます。渋々出陣の準備を行っていた清盛でしたが、その夜法皇に山門追討を命じられた一人多田行綱が西八条の清盛邸に駆け込みました。
 
 行綱は、これは法皇の陰謀で平氏が山門追討で都を留守にした隙に挙兵する計画だと密告します。後白河法皇が鹿ケ谷の山荘に側近の藤原成親、西光、俊寛らを集め清盛追い落としを謀議していたと聞いて、清盛は激怒しました。実は行綱もその謀議に加わっていたのですが、恐ろしくなって清盛に寝返ったのでした。

 これを鹿ケ谷の陰謀と呼びます。比叡山に向かうはずだった平氏の大軍は都の反平氏勢力に向けられました。まず、西光が捕えられ厳しい拷問を受けます。すべてを白状した西光は斬首されました。西光の自白により、藤原成親俊寛ら謀議に加わった者たちはすべて捕えられます。藤原成親備前に配流。俊寛も鬼界が島に流されました。ある者は斬罪、ある者は流罪と事後処理は峻烈を極めます。一旦流罪になった者でも、例えば藤原成親などは食物をわざと与えられず餓死させられたほどです。

 さすがに後白河法皇自身に類は及びませんでしたが、側近をことごとく処刑した事で清盛は法皇を恫喝しました。ただ鹿ケ谷事件で清盛と後白河法皇の関係は修復不可能になります。強大な兵力を握る清盛に対し何もできない後白河法皇は、平氏の力が衰えるまでじっと我慢しました。後に日本一の大天狗と言われた後白河法皇は、このように一筋縄ではいかない人物だったのです。

 清盛の権力は絶頂期を迎えます。ところが1179年7月、最も期待していた長男重盛が42歳で病死。後白河法皇は重盛の知行国越前を没収、清盛の娘宗子が嫁いでいた近衛基通(20歳)を差し置いて、わずか8歳の松殿師家(基通の従兄弟)を権中納言にするなど人事で嫌がらせするのがせいぜいでした。これに対し清盛は、11月14日本拠福原から軍勢を率い上洛、治承三年の政変と呼ばれるクーデターを敢行します。関白松殿基房、師家父子を始め反平氏方の公卿・院近臣39名を解任、平家方の公卿をこれに代えました。後白河法皇も一時鳥羽院に幽閉されます。

 清盛は出家し第一線からは表向き退いていたため、高倉天皇、関白近衛基通(政変後就任、のち安徳天皇の摂政)、平宗盛の三人が政治を主導する事になります。ところがこの三人は経験が浅く、結局清盛が表に出ざるを得なくなりました。清盛は娘徳子(建礼門院)をすでに高倉天皇に嫁がせており言仁(ときひと)親王が生まれています。

 1180年、病気がちであった高倉天皇は譲位して息子言仁親王が即位しました。すなわち安徳天皇です。わずか3歳の幼児に政治ができるはずはありません。外戚清盛の独裁政権の始まりでした。高倉天皇の譲位も平氏の圧迫が無かったとは言えないのです。

 表向き平氏に逆らう者はいなくなりました。しかし、潜在的不満は溜まり続け以仁王の挙兵、源三位頼政の敗死へと繋がるのです。これは源平合戦の直接の始まりでした。では、以仁王、源三位頼政の挙兵はどのような経緯を辿ったのでしょうか?


 次回、以仁王が何故挙兵したのか、そして摂津源氏嫡流源三位頼政の死について述べることとしましょう。