鳳山雑記帳はてなブログ

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平治の乱    (後編)

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 1159年12月9日夜、源義朝藤原信頼らの軍勢は後白河院御所の三条院を包囲、屋敷に火を掛けます。信西とその一族の殺害を図ったのです。反乱軍は後白河上皇とその姉上西門院を幽閉、信西の行方を捜し求めます。
 
 信西の息子たちは捕えられたものの肝心の信西本人は取り逃がしました。ここらあたり信西の野生の勘は見事というしかありませんが、結局自領の田原庄に隠れていたところを探しだされ斬首されました。
 
 クーデター派は、源氏の武力を背景に太政大臣以下百官を集め高らかに新政権誕生を宣言します。
 
 
 では、信西が最も頼りにした平清盛はこの時どこにいたのでしょうか?実は清盛は一族を引き連れ熊野参詣に赴いていました。最大の敵対勢力である清盛が京を留守にした千載一遇の好機を上手く衝いたのです。
 
 京の政変は熊野詣をしていた清盛にも伝えられました。驚愕した清盛は西国へ落ちて再起を図ろうと考えます。しかし、現地の熊野別当や、湯浅氏などが協力を申し出たことから思いとどまり、急いで帰京し六波羅邸に入りました。
 
 義朝の庶長子、悪源太義平は清盛の帰京を摂津阿倍野待ち伏せし迎え撃とうと主張しますが、またしても戦を知らない信頼の反対で取りやめになりました。もし阿倍野で義平が待ち伏せしていたらその後の平氏政権はなかったかもしれません。
 
 清盛は六波羅邸に入ると、さっそく信頼に名簿(みょうぶ)を差し出します。これは敵対する意思のない事を示したものでした。清盛としても天皇上皇を敵方に握られている以上、どうしようもなかったでしょう。
 
 しかし信頼・義朝側は甘すぎました。どう考えても清盛がこのままおとなしく引き下がるはずないではありませんか!
 
 クーデター側が清盛に対し何ら有効的な手も打たず自らの官職引き上げに興じている間に、清盛は配下の武士団を京に呼び寄せていました。
 
 そんな中、クーデターに憤った内大臣三条公教らは軟禁状態だった二条天皇を秘かに救い出し清盛の六波羅邸に連れ出します。同時に後白河上皇も脱出に成功し清盛邸に入りました。
 
 形勢は一気に逆転します。六波羅邸には関白基実らも参入したので清盛方が官軍になりました。
 
 
 二条天皇の脱出を知った義朝は、警備を怠った信頼に烈火のごとく怒ります。
「日本第一の不覚人(大馬鹿者)を頼んだ我が誤ったわ!」と激しく罵倒したと伝えられます。確かに痛恨のミスでした。天皇上皇を握っているからこそクーデター軍は官軍なのです。それが今や賊軍。大義名分を失った賊軍に味方する者はありません。
 
 一方官軍になった清盛軍には続々と各地の武士団が駆けつけました。清盛は大軍を背景に一気に決着をつけるべく出撃します。
 
 クーデター派は大敗し、散り散りになって潰走しました。首謀者の一人信頼は仁和寺覚性法親王のもとへ出頭し、清盛の前に引き出されても泣訴の限りをつくして命だけは助かろうとしますが、もとより許されるはずもなく処刑されました。
 
 義朝は本拠の東国へ落ち再起を図ろうとしますが、尾張において代々の家人長田忠致の裏切りに合い暗殺されました。長子義平も近江で捕えられ六条河原で斬られます。
 
 ただ、清盛は信西ほど非情にはなれませんでした。義朝の嫡男頼朝を義母池禅尼の嘆願で死一等を減じ伊豆に島流ししたほか、常盤御前の産んだ幼い子供たちの命を助けるなど戦後処理は中途半端なものになります。
 
 結局この甘さが平氏滅亡の遠因となるのですが、ともかく平治の乱の勝利で清盛は絶大な権力を握ります。
 
 保元の乱摂関政治が終焉を迎え、平治の乱院政は止めを刺されました。以後朝廷は清盛を中心とする平家を軸に動きだします。
 
 平氏政権の誕生です。清盛は従一位太政大臣になるなど位人臣を極めました。一族の多くが高位高官に任ぜられ、彼の義弟時忠が「平家にあらずんば人に非ず」と嘯くほどになります。
 
 
 しかし驕る平家は久しからず、東国において清盛が命を助けた頼朝は、父義朝は言うに及ばず信西入道をも超える政治力を持った曲者だったのです。