といいますのは、崇徳上皇方の主勢力が前関白藤原忠実、悪左府頼長親子であったからです。もし崇徳方が勝利すれば頼長が兄忠通に代わって関白に就任する事は間違いなく、後白河天皇方に味方した公卿達は処刑されないまでも政治の中枢からは追われたはずですから自然に院政派の力は弱まったでしょう。
ではなぜ崇徳方=藤原摂関家の勢力が敗れたか?ですが、これはひとえに頼長の政治力・人徳のなさでした。摂関家の武力の主力になるべき河内源氏からさえ棟梁源為義の嫡男義朝が離反したくらいですから。もし頼長に深謀遠慮があれば河内源氏を優遇し、為義、義朝の官位を引き上げておくこともできたでしょう。
それを頼長がしなかったのは、源氏を自家に仕える犬くらいにしか思っていなかった証拠です。その驕りが結局自らを滅ぼす事になりました。
保元の乱の結果、摂関政治復活の芽は完全に断たれます。美福門院と藤原信西の主導する後白河体制は、後白河本人が即位後二年で退位し皇位を息子の守仁親王に譲った事で一応の完成を見ました。守仁親王は二条天皇として即位します。1158年のことです。
院政というのは、上皇(あるいは法皇)が治天の君として息子である天皇を指導する体制です。言いかえれば院庁の発する院宣・院庁下文がすべてにおいて優越する政治体制でした。ですから院の近臣であれば必ずしも高い官位は必要ありません。信西入道も正五位下小納言という低い官位のまま、すっかり勢力の衰えた関白藤原忠通以下公卿を支配していました。
信西の権勢を物語るエピソードがあります。忠通の父、宇治入道忠実が軍兵を自分の荘園から集め謀反を企んでいると言いがかりをつけ忠実、頼長の所領であった荘園を没収したのです。本来ならばこれらは忠通に渡るべきものでした。しかし、信西の権勢を恐れ忠通は泣き寝入りします。忠実・忠通父子は、信西に対抗するためそれまでの対立を解消し必死に藤原摂関家を守るしかありませんでした。
平氏一門は信西の引き立てもあり、棟梁清盛が大宰大弐に任ぜられたばかりか弟頼盛が従四位下安芸守、同じく教盛が正五位下淡路守、経盛が従五位上常陸介と兄弟で実に四カ国の受領を独占します。清盛の息子たちまで長男重盛が遠江守、次男基盛が大和守と飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
ここに一人の男が登場します。彼の名は藤原信頼。官位は正三位参議・権中納言・検非違使別当・右衛門督という輝かしいものでした。異母兄基成が陸奥守、自身も武蔵守などを歴任するなど東国の武家とも関わり深い一族です。
東国に地盤を持つ源義朝とも荘園の支配関係などで古くから結びついていました。
信西に対する不満分子である義朝と信頼が結びつくのに時間はかかりませんでした。信頼は信西主導の後白河院政では自分が浮かび上がる目はないと、二条天皇親政を自分達が主導する事でこれに取って代わろうと画策します。
(後編につづく)