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戦国大名駿河今川氏Ⅵ  今川仮名目録

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                             ※ 今川氏親木像


 分国法といえば、戦国大名が自分の領国内を統治するために制定した法律で、例えば幕府の出した法令より優先するため、これを持って戦国大名の始まりとする見方があります。早くは周防の大内氏壁書、越前の朝倉孝景条々、肥後の相良氏法度などが知られています。

 ここ駿河でも、大永六年(1526年)駿河守護今川氏親(1471年~1526年)によって『今川仮名目録』という分国法が制定されました。氏親は今川氏第7代当主、駿河遠江守護で両国を完全に領国化、三河国(愛知県東部)への進出を果たします。今川仮名目録は、氏親の晩年、死去する二か月前に制定されました。これは後を継ぐ息子氏輝が領国支配しやすいように配慮したものであり、これまでのような後継者を巡っての内乱を避ける目的もありました。

 では氏親の領国支配とはどのようなものだったでしょうか?応仁の乱で幕府の権威が失墜し、鎌倉府も永享の乱享徳の乱で地方に対する統制力を失っていました。大内氏や武田氏、佐竹氏のように守護大名から戦国大名に成長した者、朝倉氏や尼子氏のように守護代から国を奪った者、あるいは毛利氏や長宗我部氏のように国人から成長した者など多くの戦国大名が登場します。

 駿河の今川氏も、幕府の権威に頼ることなく自立する必要性がありました。氏親は、領国の生産高を把握するため早い段階から検地を実行しました。これは国人(地侍)層の既得権益を侵害するものであり、よほど強力な統制力が無ければできません。氏親があえて検地を断行したのは、どうも母方の伯父(母の兄)伊勢宗瑞(後の北条早雲)の影響があったと言われます。

 宗瑞は今川家とは微妙な関係で、家臣ではなくおそらく客分という立場だったろうと思うのです。それでいて、氏親擁立に抜群の功績を挙げた事から、今川家の顧問のような形になり、時には軍を率いて今川氏のために三河や相模、武蔵に出兵しています。実は検地を始めたのは伊豆の宗瑞の領国が先でした。宗瑞は幕府政所執事伊勢氏の一族として、従来の古いやり方の欠陥を知り尽くしていました。思わぬ事から伊豆国という領地が手に入り、それまで抱いていた改革案を実行に移したのでしょう。当然伊豆での成功例は、顧問を務めていた今川家にも伝えられました。

 大永六年六月、しばらく中風を患っていた氏親は54歳で病死します。後を継いだのは嫡男氏輝(1513年~1536年)でした。氏輝はこの時わずか14歳。父氏親の配慮のおかげで家督相続はスムーズにいきました。それには母寿桂尼の後見が大きな力となります。ここで彼女の事を紹介するのも無駄ではありますまい。寿桂尼藤原北家観修寺流中御門家の出身。父は権大納言中御門宣胤。氏親の母北川殿が京都出身(伊勢氏)だったため、息子の嫁も京の公家からということで、迎えられたのでした。

 政略結婚であり、京都の姫様育ちの可弱い女性だと思ったら大間違いでした。実は彼女、古の北条政子ばりの才女で、夫氏親の亡きあと尼御台、女戦国大名として今川家を切り盛りします。彼女のおかげで今川家は大きな騒乱もなく氏輝の統治に移行できました。そして彼女は、息子氏輝の亡きあともその弟義元と氏親の側室の子玄広恵探との家督争い、所謂花倉の乱を戦い抜き義元を今川家督へ据える事に成功します。

 彼女は、孫氏真の代まで生き、亡くなったのは永禄十一年(1568年)。生年が不明なので何とも言えませんが、結婚した年から推定するとなんと80歳以上の長命を保ちました。寿桂尼の存在が今川家を支え、彼女の死と共に滅亡したのかもしれません。それにしてもなかなかユニークな女傑でした。