鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

#日本史

長宗我部戦記Ⅱ  お家再興

前回、五摂家の一つ関白一条教房が長宗我部兼序の招きで一条家の領地があった幡多郡に下向、土着して土佐一条氏となったと書きました。応仁の乱を避けたのです。実は教房の父兼良も奈良に疎開しています。兼良は従一位で元摂政・関白・太政大臣、人臣を極め…

長宗我部戦記Ⅰ  岡豊(おこう)落城

土佐国は現在の高知県に当たります。古代には都佐国と呼んでいましたが、一番西の幡多郡だけは波多国という別の国でした。律令制が始まって都佐と波多を合わせて土佐国となります。土佐は四国の南半分を占めますがその80%は山地。四国山脈が四国の他の三国…

阿波戦国史Ⅹ  中富川の決戦(終章)

長宗我部元親が阿波に侵入したとき、土佐勢は総勢2万3千。明らかに土佐の石高(10万石)から見ると過大でしたが、そのからくりは一領具足だと前に書きました。すでに占領している伊予、讃岐各地から動員した兵を加えても2万3千と言えば普通はだいたい70万石…

阿波戦国史Ⅸ  滅亡への序曲

1553年守護代三好義賢に暗殺された阿波守護下屋形細川持隆。義賢は傀儡の守護として義賢の遺児真之(1538年~1582年)を擁立します。いくら三好一族が強大な力を持っていても、阿波国内には下屋形家に心を寄せるものが数多くいました。それでも義賢が生きて…

阿波戦国史Ⅷ  将軍弑殺

※ 足利13代将軍義輝 1564年実質的な天下人三好長慶は病死しました。時の将軍足利義輝は長慶の傀儡として将軍の実権を奪われたことに我慢できず、復権の機会を虎視眈々と狙います。1559年上杉政虎(のちの謙信)が越後勢5千を率いて上洛したとき、将軍家の惨…

阿波戦国史Ⅶ  阿波下屋形家の暗雲

1564年8月三好長慶が病死すると、三好家の家督は長慶の弟十河一存の子で長慶の養子になっていた義継(1549年~1573年)が継ぎます。十河一存には実子が義継しかおらず、そのために一存は兄義賢から養子を迎えなくてはなりませんでした。これが存保です。 義…

阿波戦国史Ⅵ  三好長慶の台頭

三好長慶(1522年~1564年)は、父元長が対立する主君細川晴元にはめられ敗戦の責任を取らされて自害した時わずか10歳。元長の遺児は4人おり、末弟一存は父が死んだときまだ生まれたばかりの幼児でした。 管領細川晴元は、元長排除に利用した一向一揆が手に…

阿波戦国史Ⅴ  京兆家の家督争い

※家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 応仁の乱の結果、足利将軍は権力を失い形骸化した権威のみ残りました。三管領家でも斯波氏、畠山氏は兄弟一族が東西両陣営に分かれ激しく戦ったため力を無くし守護領国のみを汲々と守るだけの存在に落ちぶれます。三管…

阿波戦国史Ⅳ  両細川の乱

※ 家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 ここで阿波以外の細川氏の歴史を記しましょう。阿波国守護は下屋形阿波細川家が世襲したことは前に書きました。それ以外、讃岐と土佐は奥州家定禅の活躍もあり奥州家の顕氏が讃岐、定禅が土佐の守護となります。他に河…

阿波戦国史Ⅲ  阿波の南北朝

1336年阿波国に入った細川和氏、頼春兄弟は秋月城を中心に吉野川下流域の徳島平野の国人を組織し支配を固めます。徳島県の地図を見ると分かる通り、阿波はこの吉野川流域が中心でここを制圧すればほぼ阿波一国を支配したと同然になりました。 守護小笠原頼清…

阿波戦国史Ⅱ  細川氏の阿波入部

※家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 細川氏は足利一門です。足利初代義康の曾孫義季が三河国額田郡細川郷(岡崎市細川町)に所領を得て細川氏と称します。同じ足利一門でも、宗家に匹敵する家格を持つ斯波(尾張足利)氏や、武蔵の大豪族畠山重忠の名跡を…

阿波戦国史Ⅰ  鎌倉時代の阿波

慶長検地における四国の石高は伊予国(愛媛県)37万石、土佐国(高知県)10万石、讃岐国(香川県)17万5千石、阿波国(徳島県)18万7千石でした。地形から見ると伊予だけ突出しているように見えますが、伊予は早くから開発が進み山間部にも棚田式の水田が多…

日本人を守るための戦い  根本博と駐蒙軍

大日本帝国陸軍中将根本博、戦史に詳しい方なら名前くらいは聞いたことがあるでしょう。第21軍参謀長、南支方面軍参謀長、第24師団長、第3軍司令官を経て1944年11月より駐蒙軍司令官を拝命、1945年8月19日からは北支方面軍司令官を兼任し復員事業に尽力。戦…

延久蝦夷合戦 青森が日本になった日

※ 盛岡の観光・歴史・文化・人物より 平安時代の歴史、東北日本史に興味のない方はチンプンカンプンだと思うのでスルー推奨です。延久蝦夷合戦とは前九年の役、後三年の役の間に行われた出羽の豪族清原氏による蝦夷・閉伊(これも蝦夷の一種と推定)の異民族…

奥六郡と仙北三郡の生産力

実は、独眼竜政宗にはまってからその興味が東北の歴史に移りまして前九年の役、後三年の役に関する長編を書こうかと思案しているところです。ただ、阿波戦国史、長宗我部三代記など四国ものの予定もありまして、いつになるか分かりません。 その前に歴史シリ…

わんこそばと南部利直

最近独眼竜政宗に影響されて東北戦国話が続きますが、決して政宗を手放しで褒めないのがミソ(笑)。だって知れば知るほど、自業自得の失敗を繰り返しよくこれで一時奥州に覇を唱えられたなと驚くほど。運だけは持っていたんでしょうね。政宗は嫌いではない…

田村顕頼は百歳???

※家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 前記事岩崎一揆を鎮圧した南部家の宿老北信愛(のぶちか)が当時77歳だったことに驚いたと書きました。信愛は、なんと1613年まで生き91歳で大往生を遂げたそうです。戦国時代には時々このように驚くべき長命の人が出て…

岩崎一揆 伊達政宗と南部信直の代理戦争

1590年豊臣秀吉による奥州仕置き。陸奥の大名南部信直は、かつての家臣津軽為信がいち早く秀吉に謁見し独立大名として本領津軽郡5万石を安堵されたため、それ以外の領土しか安堵されませんでした。参陣が遅れた以上どのような言い訳も無駄だったのです。津軽…

人取橋合戦時の連合軍勢力

ただいま独眼竜政宗にはまっておりまして、1585年人取橋合戦時の反伊達連合軍の勢力について興味を覚えました。そこで私なりに調べたので書き記します。 ◇佐竹義重(1547年~1612年) 反伊達連合軍の盟主。本領は常陸国(現茨城県の大半)奥七郡。と言っても…

伊倉宮の謎

あまりにもマイナーで超ローカルな話題なので、一般の方はスルーしてください。 玉名市史を読んでいて疑問に思ったことがありまして、南北朝時代九州南朝の雄菊池武光が伊倉宮を擁し肥後国内で室町幕府の九州探題今川了俊の軍と戦ったという記述があります。…

日本の隠れ里 京丸

享保年間(1716年~1736年)、遠江国(静岡県西部)周智郡石切村は洪水に見舞われました。すると石切川(天竜川水系)の上流から椀が流れ着きます。村人たちは、そこで初めて上流に人が住んでいることを発見しました。 石切川水源にあったのは隠れ里『京丸』…

天正伊賀の乱

映画「忍びの国」でも話題の天正伊賀の乱。これは天正6年(1578年)から7年にかけての第1次、天正9年(1581年)の第2次と2回にかけて繰り広げられた織田信長と伊賀の惣国一揆との間の戦いです。惣国一揆とは聞きなれない言葉ですが、国内の国人、土豪、地侍…

源平合戦14 幕府成る日(終章)

奥州合戦によって1180年以仁王の乱から始まる治承・寿永の乱所謂源平合戦は終わります。この間、栄華を誇った平家は滅亡し、源氏側でも源三位頼政、木曽義仲、源義経が亡くなりました。鎌倉にあって着々と政権基盤を固めた頼朝が最終的勝利者となったのです。…

源平合戦13 奥州合戦

頼朝が後白河法皇に設置を認めさせた守護・地頭の制度。厳しい言い方ですが、義経が鎌倉政権に対して成した最大の功績が守護・地頭でした。謀反人義経追捕という大義名分で、鎌倉政権は日本全土に守護と地頭を設置します。 守護とは、その国の軍事・警察権を…

源平合戦12 義経最期

壇ノ浦勝利の吉報が鎌倉にもたらされた時、頼朝は亡き父義朝の菩提を弔う法要を営んでいたそうです。非業に倒れた父、自身の二十年の流人生活を思い頼朝は感慨深かったでしょう。しかし感傷に浸ってはいられません。今では鎌倉殿と尊称され天下人となったの…

源平合戦11 平家滅亡

一の谷の戦いの後、鎌倉の頼朝は後白河法皇に対し日本全国の武士の横領・狼藉停止の命令とその実行を頼朝に委託する旨の院宣を出すよう要求します。これは実質的に頼朝が天下人となることと同義ですが、現実に軍事力で京都を制圧している頼朝の要求を法皇は…

源平合戦Ⅹ 一の谷から屋島へ

正五位下斎院次官中原親能。鎌倉軍が1184年1月入京した時、人々は範頼や義経の名を知らず親能が総大将だと勘違いしたそうです。京で長年暮らして事情に明るい親能なくしては院や朝廷との交渉など不可能だったでしょう。範頼や義経はあくまで軍事面での総大将…

源平合戦Ⅸ 粟津に死す

頼朝の派遣した大軍が迫る中、義仲に従う武士たちはどうも義仲の将来が暗そうだと分かり始めます。後白河法皇、後鳥羽天皇を幽閉した暴挙もそうだし、大義名分でも鎌倉軍の方に分がありました。こうなると寄せ集めの悲しさ、次々と逃亡者が出てきます。叔父…

源平合戦Ⅷ 平家の都落ち

最初に富士川合戦以降の平氏政権の動向を記しましょう。1180年12月、清盛は以仁王の乱に関連し平氏政権に反抗的な態度を崩さない南都(奈良)興福寺を焼き討ちします。指揮したのは清盛の五男重衡で、このために興福寺の深い恨みを買いました。もともと平家…

源平合戦Ⅶ 倶梨伽羅峠の戦い

越後城氏は桓武平氏の一族です。清盛などの伊勢平氏とは別流で平貞盛の弟繁盛から始まります。繁盛は常陸平氏の祖で城氏は大掾氏とも近い一族でした。繁盛の嫡男惟茂の子繁成が秋田城介(出羽国司の軍事面での次官)だったことから城氏を称します。子孫は越…