鳳山雑記帳はてなブログ

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長宗我部戦記Ⅱ  お家再興

 
 
 前回、五摂家の一つ関白一条教房が長宗我部兼序の招きで一条家の領地があった幡多郡に下向、土着して土佐一条氏となったと書きました。応仁の乱を避けたのです。実は教房の父兼良も奈良に疎開しています。兼良は従一位で元摂政・関白・太政大臣、人臣を極め当代一流の文化人として高名でした。その兼良ですら京都を逃れるのですから応仁の乱で京都がいかに荒廃したか分かります。教房の弟冬良は京都に残りこちらが嫡流扱いとなり五摂家の一つ一条家を継ぎました。
 
 ただ教房は土佐にありながらも従一位の位階は保ち続け、その子で後を継いだ房家も土佐に居て朝廷の官位は昇進し続けます。最終的には正二位権大納言まで昇りつめ、久しく絶えて居なかった土佐守も兼任しました。これは武家が称する私称ではなく正式な朝廷の官位なので土佐国内では尊崇の対象となり他の武士たちが戦国で争う中別格として存在し続けます。
 
 京都に残った一条家も房家の次男房通が継ぎます。大叔父冬良の養子となったのです。実質教房の子孫が京都の一条家と土佐一条氏を継承することになりました。その後京都の一条家は江戸時代に嫡流が絶え、後陽成天皇の第9子昭良が養子に入り第14代当主を継承しますから皇別摂家となります。
 
 
 長宗我部兼序の忘れ形見千雄丸が頼ってきたのは一条房家の時代でした。房家は幼い千雄丸に同情し温かく迎えます。今回のシリーズの基本資料『高知県の歴史』(山本大著 山川出版)に載っていないので史実かどうか確認できないのですが、亡命時代の千雄丸の有名なエピソードがあります。
 
 ある時一条房家は酒宴を開いていました。ほろ酔い加減の房家は、傍らに控えている千雄丸に尋ねます。
「あの欄干から下へ飛び降りることができるか?できるならばお家再興をしてやろう」
全くの戯れでした。高楼ですから、飛び降りれば無事ではすみません。下手したら死にます。周囲がハラハラする中、千雄丸はすくっと立ち上がると欄干まで走りさっと飛び降りてしまいました。
 
 自分の戯言で幼子を殺したかもしれないと青くなった房家が慌てて駆け寄ると、庭先で怪我一つせずにっこり笑う千雄丸が居ました。房家は武家の子のお家を思う心に感心するとともに恐怖すら覚えます。そして自分の傍らで震えている嫡子房冬を見て、一条家の将来を思い暗澹たる気持ちになったともいわれます。
 
 房家は、約束を守りました。千雄丸が成長すると1518年本山梅慶や山田氏、大平氏に長宗我部氏の旧領返還を命じます。さすがの梅慶も土佐国司で土佐中の尊崇を受ける房家に逆らうことはできず、渋々ながら長宗我部旧領を返しました。
 
 千雄丸元服の時期は明らかではありませんが、当時土佐守護だった管領細川高国から一字を拝領し国親と名乗ります。高知平野に進出し朝倉城を居城とする本山梅慶はまだまだ強大でした。家督を継いだ国親は、まず領内の充実を図ります。土佐の国人で山内首藤氏の流れをくむ江村郷吉田城主吉田孝頼(1494年~1563年)を登用し内政や軍備を任せました。後年長宗我部氏富強をもたらした一領具足の制度も孝頼が考案したと言われます。孝頼は国親の妹を正室に娶り、長宗我部一族・宿老として国親を支えました。
 
 本山梅慶健在の間は国親雌伏の時でした。1544年国親は自分の娘を宿敵本山梅慶の子茂辰に嫁がせます。政略結婚でした。そうしておいて1547年隣国大津城の天竺氏を滅ぼし、その南、介良の横山氏を降します。下田駿河守、十市細川定輔(守護代細川遠州家の一族か?)も服属させ、ついに1549年仇敵の片割れ山田氏を倒しました。
 
 国親は長岡郡南部に確固たる地位を築き、本山梅慶は警戒します。自分の子茂辰が凡庸だったことも心配の種でした。1555年梅慶は波乱の生涯を閉じます。いよいよ国親は本山氏との対決の姿勢を鮮明にしました。1556年香我美郡の香宗我部家で内紛が起こります。香宗我部家の当主親秀は、日の出の勢いの長宗我部氏を恐れこれと結ぼうとしますが、弟がこれに反対したため殺してしまいました。親秀は国親の三男親泰を養子に迎え家督を継がせます。これで国親は香我美郡にも大きな楔を打ち込みました。
 
 同じ年、国親はついに本山氏に対し挙兵します。本山家臣秦泉寺氏を寝返らせ、大高坂氏国沢氏を討ちました。1560年長浜城攻略。本山茂辰は朝倉城に2千の兵を集め長浜城奪回を図りますが、国親はこれを長浜の合戦で撃破、逆に国親は浦戸湾を望む本山方の重要拠点浦戸城を奪いました。
 
 本山氏を滅ぼすのは時間の問題となります。ただ国親には気がかりが一つありました。嫡男弥三郎元親の事です。元親(1539年~1599年)は幼少時からおとなしく姫若子(ひめわかご)と呼ばれるほど軟弱でした。宿敵本山梅慶の子茂辰が凡庸だからこそ国親の快進撃が続いているのですが、もし元親の代になったとき再逆転される恐れすらあったのです。
 
 その元親と、次男親貞(吉良氏を継ぐ)は長浜合戦が初陣でした。長宗我部氏の将来を決める戦いになるはずです。元親はどのように初陣を飾ったのでしょうか?
 
 
 
 
 次回、姫若子にご期待ください。