安芸氏を滅ぼした長宗我部元親は1570年一条氏の属城蓮池城(土佐市)を落とします。翌1571年には高岡郡半山(はやま)城主津野勝興を降し元親三男親忠を養子に入れ家督を継がせました。ただ、幡多郡の一条氏への攻撃は控えます。それは長宗我部家中に一条氏を攻めることへの抵抗が大きかったからです。とはいえ、安芸国虎と結んで岡豊城を攻めた一条兼定に関して元親は良い感情を抱いてはいませんでした。
一条兼定(1543年~1585年)は事実上土佐一条氏最後の当主です。一条房基の嫡男として生まれ、1549年父房基が自害したため7歳で一条家を継承しました。兼定は暗愚で、最初伊予宇都宮氏の娘を正室に貰い嫡男内政(ただまさ)をもうけます。ところが豊後の大友宗麟の娘が国色無双の絶世の美女と聞くと、正室を離縁し大友家に婚姻を申し出ました。
これを聞いた宗麟は兼定の正気を疑いますが、土佐一条氏を四国進出の先兵として利用しようと娘を与えます。兼定は荒淫で女色に溺れ日夜酒宴を繰り返しました。幡多郡平田村の村長源兵衛の娘雪を見初めると側室に貰い受け、豪勢な居館を建ててそこへ住まわせます。兼定の遊興のために一条家の財政は傾きました。家老土居宗珊(そうさん)は主君をたびたび諫めますが、兼定は全く聞く耳持ちませんでした。
一条家の家臣たちは兼定ではお家を保つことができないと憂います。その中の一派は、嫡男内政の後見に隣国長宗我部元親を頼み主君兼定を追放しようと考えました。元親にとっても渡りに船、むしろ資金を与え扇動したくらいです。元親から攻めることは難しくても、一条家中の要請という事であれば出兵の大義名分が立つのです。
長年一条家に仕えた忠臣宗珊は家中のこのような動きを憂います。ある時主君兼定を強く諫めますが、逆に宗珊謀反の噂が出たため怒りを買い自害を命じられました。証拠はないのですが、私は元親の謀略の可能性を感じます。宗珊自害を受け、一条家の家臣たちは激高しました。1574年2月、立ち上がりついに主君兼定を豊後に追放しました。家督は内政が継ぎます。
元親は一条家臣たちの要請を受け軍勢を中村館に派遣しました。内政に自分の娘を嫁がせ傀儡として担いだのです。中村には弟吉良親貞が入り城代となりました。こうして労せずして一条氏領を手に入れた元親ですが、一条家臣たちは話が違うと怒りました。しかし長宗我部の軍勢が中村館に入った今どうすることもできません。愚かな行為だったと悟っても後の祭りでした。
長宗我部の軍政下、一条家の旧臣たちは秘かに豊後の兼定と連絡を取りました。1575年兼定は舅宗麟に兵を借り伊予に上陸します。一条家の旧臣たちは兼定上陸を聞くと馳せ参じ、東伊予の諸将も兼定に味方したため3千5百の兵力になりました。兼定は土佐に入り四万十川河口部西岸の栗本城に入ります。一条勢は四万十川に杭を打ち込み長宗我部軍来襲に備えました。
一条勢は、中村へ進出し城下に火を放ちます。中村屋形にいた吉良親貞は従えていた兵が少数だったため一時撤退し、兄元親に急使を発しました。兼定は中村館に復帰します。報告を受けた元親は7千3百の軍勢を動員すると幡多郡に出立しました。長宗我部勢は四万十川東岸に布陣します。
1575年7月、両軍は激突しました。長宗我部勢の先陣が四万十川渡河を開始。数に劣る一条勢は鉄砲を撃ちかけながらじりじりと後退します。元親は第二陣の福留儀重(親政の子)に命じ杭のない上流から渡河させようとしました。一条方は挟撃を恐れ軍を二手に分け福留勢迎撃に向かわせます。兵力の少ないほうが軍を分けるのは致命的でした。兼定に軍才がない証拠です。
元親は一条方の動きを見逃しませんでした。全軍に一斉渡河を命じます。ただでさえ少ない兵力だった一条勢は、倍以上の兵力を受け支えきれなくなります。杭による妨害にも限度がありました。総崩れとなった一条勢は敗走します。長宗我部軍はこれを追撃し夕刻までに2千の敵兵を打ち取りました。兼定は伊予に逃亡し瀬戸内海の戸島に隠棲します。事実上四万十川の戦いで名門土佐一条家は滅亡しました。従三位権中納言・左近衛中将・土佐守という四国では並ぶ者のないほどの高官だった兼定ですが、官位は戦国の世では全くの無力だったと言えます。
元親は念願の土佐平定を果たしました。長宗我部家の軍事力の中核は平時は農業に従事し戦時には兵となる一領具足だと以前書きましたが、石高からはあり得ないほどの大兵を動員できる反面軍功に見合った褒美を与えるには土佐一国の生産力では限界があります。自然、元親の征服事業は土佐一国では終わらず四国全土への侵攻となりました。
元親は土佐の兵力を三分し幡多郡・高岡郡の兵には伊予に進出させ、安芸郡・香我美郡の兵は阿波へ向かわせます。中央の長岡・土佐・吾川の兵は戦況に合わせて伊予や阿波に向かわせることにしました。一方元親は外交にも力を入れます。中央では織田信長が上洛を果たし天下統一へ向けて各地へ軍を派遣していました。
妻斎藤氏の縁で信長に家臣中島可之助を使者として送った元親は、誼を通じるとともに嫡男千雄丸に信長の一字を拝領し信親と名乗らせます。これは信長が三好三人衆と敵対していたことから、遠交近攻の策でした。信長としても元親を四国平定に利用しようという腹でした。
次回、元親の四国平定戦を描きます。