土佐は古来より罪人などが流される地であり、北を四国山脈に塞がれ、南は太平洋に面しているため、どこにも行けぬ陸の孤島であった。南北朝時代に細川頼益が守護代として入国し安定を見せたが、応仁の乱により細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始めた。これが土佐七雄である。】(ウィキペディアより)
10万石足らずの土佐に、戦国時代7人(一条氏を加えると8人)の豪族がひしめき合っていたのですから驚かされます。だいたい一郡に一人の割合ですね。
真っ先に動いたのは長岡郡の山間部に勢力を持っていた本山氏でした。管領細川氏の威光をかさに土佐に君臨していた長宗我部兼序(かねつぐ)を滅ぼすため、近隣の吉良、山田氏などと語らい連合して1508年長宗我部氏を攻撃します。これで一時長宗我部氏は滅亡し、兼序の遺児千雄丸(のちの国親)は一条氏を頼って亡命を余儀なくされました。
本山氏の最盛期を築いたのは本山茂宗(しげむね、1508年~1555年)の時代でした。入道して梅慶と号したのでこちらの名前が有名ですね。
本山氏は本拠の本山城から平野部に進出し朝倉城を築き支配の拠点とします。梅慶は中村御所一条氏とも敵対し土佐で最も力を持った勢力に成長しました。
急速に台頭した本山氏への反感もあったのでしょう。一条氏の庇護下にあった千雄丸は、一条氏の肝煎りで再び長岡郡の所領を回復します。梅慶の生きている間は大丈夫でしたが、彼の死後再び力を取り戻した長宗我部国親は不倶戴天の敵として本山氏と対決しました。梅慶の生きている間雌伏し本山氏と政略結婚までしていた国親でしたが、その死後挙兵し梅慶の後を継いだ茂辰(しげとき)と戦います。
1560年の長浜の合戦で本山軍を破った国親は長浜、浦戸城を本山氏から奪取、朝倉城に迫ります。が、国親は急に病を得て1560年急死しました。享年57歳。
あとを継いだのは嫡男の元親でした。元親は本山氏を攻撃し続け、圧迫に堪え切れなくなった茂辰は朝倉城を焼いて、本拠の本山城に退去します。
元親はその後も攻撃の手を緩めず本山氏をついに滅ぼします。こうして土佐中央部に確固たる地位を築いた元親は、安芸氏、次いで一条氏を滅ぼして土佐統一に成功するのです。
このあたり司馬遼太郎の「夏草の賦」に詳しいので興味のある方は一読をお勧めします。
七人守護はあるいは降り、あるいは元親に滅ぼされてしまいました。元親は土佐統一のエネルギーを四国平定へと振り向けていくことになります。土佐の戦国時代は非常に面白いですね。