平安時代の歴史、東北日本史に興味のない方はチンプンカンプンだと思うのでスルー推奨です。延久蝦夷合戦とは前九年の役、後三年の役の間に行われた出羽の豪族清原氏による蝦夷・閉伊(これも蝦夷の一種と推定)の異民族に対する征服事業です。実は私も知らなかったんですが、前九年・後三年の役を調べているうちに発見しました。
簡単に前九年の役を振り返ると、奥六郡(岩手県の北上川流域、中央部)の支配者安倍一族に陸奥守源頼義、義家父子が言いがかりともいう理由で戦を仕掛け滅ぼした戦役です。ただ安倍一族が頑強に抵抗したため、頼義は出羽国仙北三郡(横手盆地一帯)を領する清原氏に助けを求め、清原氏の軍事力を借りて安倍一族を滅ぼしました。
戦の結果、源頼義は朝廷から警戒され伊予守に転出、奥羽の軍事指揮権を握る鎮守府将軍には清原武則が任じられ一方的に清原氏が得をした形となりました。この戦後処理が源氏側に不満を生み、後三年の役では陸奥守に返り咲いた源義家が清原氏の内紛に付け入る形で戦を仕掛け清原氏を滅ぼします。
ちなみに、安倍頼時の娘を妻にしていた藤原経清(亘理権大夫、陸奥国府の役人)も戦後源頼義の怒りを買って残酷な方法で処刑(錆びた刀で鋸引き)され、妻(頼時の娘)は戦利品として仇敵清原武則の子武貞の妻にされました。この時娘は経清との間に生まれた幼児を伴っており、彼は仇敵一族の中で若年期を過ごすこととなります。
前九年の役の結果、仙北三郡に加え奥六郡の支配者となった清原武則は俘囚(蝦夷のうち朝廷の支配に服した者)で初めて鎮守府将軍になります。もっとも出羽清原氏は出羽国在庁官人出身で俘囚の支配者となったという説もありはっきりしません。
清原武則は鎮守府将軍として、いまだまつろわぬ民、蝦夷の征服を考えます。朝廷における後三条天皇の征夷の意向を汲んだとも言えますが、陸奥守源頼俊が征夷の勅命を受け、実質的に軍を動かしたのは清原氏でした。wikiでは清原軍を指揮したのは清原貞衡だとされますが、出羽清原氏系図に貞衡なる人物は見つからず、鎮守府将軍になるくらいですから武則あるいはその息子武貞だろうと推定されます。
合戦の具体的な経過は分かりません。すでに安倍氏時代から津軽地方の十三湊(現在の十三湖と日本海を隔てる陸橋状の半島部)を整備していたという説もありますから、安倍氏の勢力はある程度は浸透していたのでしょう。清原軍の遠征目的の一つは、安倍氏の勢力を受け継ぎ実質的な支配を確立しようという意図もあったと思います。
おそらく抵抗らしい抵抗はなく、あったとしても小競り合い程度。一年もしないうちに、岩手県の太平洋岸(閉伊の地)と現在の青森県にあたる下北地方、津軽地方は平定されました。糠部郡や津軽郡はこの時設置されたそうです。ただ完全支配されるにはまだ数年から数十年かかったといいます。