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天正伊賀の乱

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 映画「忍びの国」でも話題の天正伊賀の乱。これは天正6年(1578年)から7年にかけての第1次、天正9年(1581年)の第2次と2回にかけて繰り広げられた織田信長と伊賀の惣国一揆との間の戦いです。惣国一揆とは聞きなれない言葉ですが、国内の国人、土豪地侍が結合し一種の共和制を形成した集団です。イメージ的には加賀一向一揆に近いと思います。

 戦国時代の伊賀国はどういう状況だったでしょうか?伊賀は現在の三重県西部、京都や滋賀、奈良に隣接する盆地です。慶長末期の検地で石高十万石。地形の割には結構豊かです。伊賀といえば甲賀と並び忍者で有名ですが、実態は乱波、透破(らっぱ、すっぱ)の類で情報収集や情報攪乱などを担当した工作員です。伊賀や甲賀のように小土豪が乱立し統一した勢力がない地域は、外に出稼ぎに行って生計を立てる者が多かったそうです。

 ですから忍者が居るから伊賀を攻められないのではなく、必要性がないから織田信長がしばらく無視していたというのが実情でした。信長の本国尾張・美濃からは近江を通れば京都に行けますし裏街道の伊賀を通る意味はないわけです。

 織田信長の征服事業の空白地帯となっていた伊賀ですが、天正4年(1576年)三瀬の変で旧伊勢国司・守護の北畠具教を信長が暗殺し伊勢国を完全に掌握したことから隣国伊賀にも関りができました。すでに信長は伊勢に連年兵を入れ実質的には支配していました。信長の次男信雄を具教の養子として送り込んでいたことでもわかります。具教はじめ北畠一族の暗殺は形式的にも信長支配を確立させた事件でした。

 征服後伊勢国は信長の次男信雄に与えられました。ただおそらく直接支配は北畠氏旧領の南伊勢だけで、伊勢の他の地域は寄親として間接支配だったと思われます。当時の信長は天正3年長篠(設楽が原)合戦、越前再侵攻(朝倉氏滅亡後一向一揆が乗っ取っていた)、摂津石山本願寺との十年戦争、天正5年の紀州雑賀攻めなど後方地域の伊勢にかまっている暇はありませんでした。伊賀に関してはそのうち征服するにしても、優先順位は低かったのです。

 信長次男信雄という人物は暗愚で有名ですが、功名心だけは人一倍でそれが第1次伊賀攻めという愚挙につながりました。天正6年(1578年)2月、伊賀国の国人平山平兵衛が伊賀国への手引きを申し出ます。これを奇貨とした信雄は、父信長に無断で伊賀侵攻の準備を始めました。信雄が動員した兵力は八千。おそらく自分の領国のみの兵力でしょう。同年9月16日、信雄は三方から伊賀に攻め込みました。ところがろくに準備もせず情報にも暗かったため、伊賀国一揆のゲリラ戦法にまんまとやられ惨憺たる敗北を喫します。

 報告を受けた信長は激怒し信雄に一時は親子の縁を切るとまで叱りますが、面目が潰れたことには変わりなくようやく伊賀侵攻を考え始めました。信長は内通者を募るなど周到な準備の末天正9年(1581年)四万四千という大軍を動員して伊賀に攻め込みます。今回も名目上の大将は信雄ですが、蒲生氏郷丹羽長秀滝川一益堀秀政筒井順慶などが実質的に指揮し六ケ所から侵攻しました。

 当時の伊賀の人口は推定で9万。これに四万四千の兵力で攻め込むのですから、ゲリラ戦など下手な工作は通用せず、文字通り撫で切りという惨状で、実に3万以上が殺されたそうです。信長は自分に敵対した伊賀国の住民を許さず女子供でも容赦しませんでした。伊賀国は焦土と化し多くの住民が他国に逃げ出します。

 制圧後伊賀国は、山田郡を三男信孝配下の織田信兼、他の三郡は信雄家老で北畠一族出身の滝川雄利に与えられました。関が原後は筒井定次(順慶の養子)が領しますが、筒井氏の時代でもまだ伊賀国は復興していなかったそうですから、信長の破壊がいかに凄まじかったかわかります。

 第1次、第2次を合わせて天正伊賀の乱と呼びますが、伊賀国の不幸は統一者がおらずばらばらの状態で征服者信長の侵攻を受けたことです。統一者がいれば、ほどほどのところで降伏するか、もっと利口なら最初から帰順し住民に被害が及ばなかったでしょうから。