鳳山雑記帳はてなブログ

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朝倉家の人々

 南北朝以来の歴史を誇り、越前の一介の国人から応仁の乱で活躍し越前守護職まで昇りつめた朝倉氏。戦国大名への脱皮にも成功し越前を中心に大きな勢力を誇ります。ところが最後の当主義景は凡庸で大きな選択をいくつも間違えたため天正元年(1573年)織田信長によってあっさりと滅ぼされました。

 朝倉義景自身の資質もあったのでしょうが、滅亡の原因は朝倉一族や重臣たちの失態も大きかったと思います。それでは彼らがどう動いたのか見ていきましょう。

 

【朝倉景恒】

 朝倉家では一門衆である同名衆が大きな力を持ちます。中でも朝倉宗滴の子孫である敦賀郡司家と大野郡司家が筆頭でした。景恒は最後の敦賀郡司です。朝倉家では最も早く没落しました。元亀元年(1570年)織田信長の侵攻を受け金ケ崎城に籠城するも降伏勧告を受けあっさりと開城します。これが家中の非難の的となり永平寺に遁世、病死しました。

 

【朝倉景鏡】

 大野郡司家最後の当主です。義景とは従兄弟に当たります。同名衆筆頭として当主義景の政策に批判を続け、1573年織田軍が侵攻した最後の戦いでは病気と称し出陣を拒否。さらに一乗谷が危なくなると、義景に自分の本拠大野郡への逃亡を勧めます。ところがそこで裏切り義景に自害を強要、義景の首を土産に信長に降伏しました。

 降伏後土橋信鏡と改名、信長から越前支配を任されますが、一向一揆が起こると朝倉家の裏切り者として標的になり平泉寺に籠城するも戦死します。一説では一揆勢に捕らえられ息子と共に処刑されたとも言われます。どちらにしろ裏切り者の末路としてふさわしい最期でした。

 

【朝倉景健】

 姉川の合戦では朝倉軍の総大将を務めます。家格としては敦賀郡司家、大野郡司家に続く家格だったそうです。朝倉家が滅亡すると織田信長に降伏、所領を安堵されます。ところが間もなく起こった一向一揆では一揆勢に降伏。織田軍が逆襲に転じると、一揆勢を指揮していた本願寺の使僧、下間頼照、下間頼俊の首を手土産に再び信長に降伏を請いました。しかし許されるはずもなく信長の命で自害させられます。こんな人物を朝倉勢の指揮官にせざるを得ないんですから、朝倉家の人材不足は深刻ですね。

 

【前波吉継】

 朝倉家重臣筆頭。朝倉家最後の戦いで一族の景鏡は病気を理由にしましたが吉継はさらに酷く出陣を公然と拒否します。そればかりか織田軍にさっさと寝返り越前の案内役をするという厚顔無恥さでした。滅亡後、景鏡と共に越前守護代として越前支配を任されますが、同じ降伏組の富田長繁を重用しなかったため恨みを買い、一向一揆を起こされます。富田長繁率いる一揆勢に一乗谷を攻められ逃亡を図るも失敗。一揆勢に捕らえられ処刑されました。

 

富田長繁

 裏切り者揃いの朝倉家中でも極めつけの人物でしょう。朝倉家滅亡後府中領主に任じられますが、守護代になった前波吉継(桂田長俊と改名)との待遇の差に不満を抱き加賀の一向一揆を引き入れました。一揆は成功し一時は越前を支配しますが、今度は一揆内での地位に不満を抱きます。一揆内で主導権を奪おうと画策しますが、合戦中に仲間の小林吉隆に裏切られ背後から鉄砲で射殺されました。これも裏切り者の末路にふさわしい最期だと言えます。

 

【山崎吉家】

 NHK大河では榎木孝明さんが演じていますね。裏切り者揃いの朝倉家では比較的ましな人物です。天正元年(1573年)信長の越前攻めで退却する朝倉軍本隊を守るため殿を務めました。そこで衆寡敵せず戦死。意地悪な見方をすると裏切る時間的余裕がなかったとも言えます。酷な見方でしょうが…。

 

 こうしてみると朝倉家には碌な人物がいませんね。滅亡する家はこういうものなのでしょう。