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北畠親房と常陸の南北朝Ⅲ   北畠親房の常陸下向

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 義良親王を奉じて陸奥守・鎮守府将軍を拝命していた北畠顕家の活躍で南朝方は1336年(建武三年)京都から足利尊氏を叩き出す事に成功します。おそらくこのまま顕家の奥州勢が敗走する足利軍を追っていれば尊氏の息の根を止めることは可能だったでしょう。楠木正成も追撃策を支持していたといいます。ところが京の都を回復して安心したのか宮方は致命的な失策を犯しました。

 敗走する足利軍は放っておいてもじり貧になって壊滅すると考え、それよりも全国の支配権を確立することが優先するとして再び顕家を任地の奥州に戻したのです。実際尊氏が命からがら九州に辿り着いた時足利勢は数百にも満たなかったそうです。ところが建武政権は、鎌倉幕府討伐に功績を上げた一部の者を除いて多くの武士たちの恨みを買っていました。

 建武政権は、鎌倉幕府から彼らが保障されていた本領にまで手を付けどんどん没収して倒幕にまったく寄与していない公家や寺社に与えたのです。これでは恨みを買わないはずはありません。もともとそこが貴族や寺社の荘園だったとしても、鎌倉武士が幕府から恩賞として賜り一所懸命と守ってきた土地です。尊氏は、そのような全国の武士の不満を上手く掬いあげ自分の勢力拡大に利用しました。尊氏の政治力が勝ったと言えばそれまでですが、南朝が次第に不利になって行った背景には自らの失政が大きかったと思います。

 風前の灯だった尊氏は、これら武士団の協力を得て急速に勢力を回復します。まずは筑前多々良浜において宮方の菊池武敏の大軍を撃破、これで九州・四国・中国の武士団が尊氏になびきました。尊氏が巧妙なのは、後醍醐天皇皇位を奪われて不満を持っていた持明院統光厳上皇を味方につけた事です。ここで両者の対立は北朝持明院統)と南朝大覚寺統)の対立に変わりました。すなわち南北朝時代の始まりです。

 尊氏は西国の大軍を率いて上洛作戦を開始、1336年5月25日には摂津湊川の合戦で宮方を破り楠木正成を敗死させています。尊氏の九州落去から半年も経っていません。後醍醐天皇は京都を脱出し比叡山に籠りました。その後、一時和睦、後醍醐天皇幽閉、吉野脱出で本格的な南北朝時代が到来します。

 1337年(建武四年、以後南北両朝の年号があるので西暦のみ記す)、劣勢に陥った吉野の南朝は再び奥州の北畠顕家に上洛を命じました。ところがその頃顕家は多賀城を追われ南陸奥福島県)の霊山に本拠を移していました。奥州でも北朝方の勢力が拡大し苦戦していたのです。吉野朝廷の悲鳴にも似た上洛要請に8月11日顕家もついに重い腰を上げます。

 顕家は奥州五十四郡から十万騎の大軍を集めたと太平記に記してありますがもとより誇張でしょう。十万も兵力があれば奥州は完全に平定できます。といっても顕家の武名は全国に轟わたっており数万の兵力を集めたのは確実だと思います。今回は白河関から下野に入り下野守護小山氏を撃破、鎌倉では足利方の東国における総大将斯波家長を自害に追い込んでいます。破竹の勢いで東海道を進み美濃青野原の合戦で高師冬、土岐頼遠上杉憲顕らが率いる足利方の大軍を撃破しました。

 ところがこの戦いで北畠軍は大きな損害を出し、越前で戦っている新田義貞との連携は断念せざるを得なくなります。伊勢、伊賀と裏手から大和に入った北畠軍ですが、1338年5月22日和泉国石津の戦いでついに決定的敗北を喫し顕家は戦死しました。享年20歳。あまりにも短い名将の最期でした。


 顕家の父、北畠親房は吉野の朝廷にあって後醍醐天皇を補佐していましたが、顕家の戦死で劣勢に陥った態勢を立て直すため伊勢に入ります。これが北畠氏と伊勢が関係を持つ最初でした。ちなみに、南朝伊勢国司として親房の三男顕能(あきよし)が任ぜられ伊勢北畠氏の祖となります。伊勢北畠氏は、伊勢国南部を支配し八代具教(とものり)が戦国時代末期織田信長に滅ぼされるまで続きます。

 伊勢国である程度の地盤を築いた親房は、次男の顕信(1320年~1380年)が戦死した兄顕家に代わって鎮守府将軍に就任し奥州に赴任していたのを補佐するため東国下向を考えました。親房は、北朝南朝の勢力が拮抗する常陸に入って支配を固め陸奥の顕信と連携することを図ります。1338年義良親王宗良親王を奉じて伊勢大湊を出港した親房ですが、途中暴風雨に遭い両親王と分かれ単身常陸に上陸しました。

 この時義良親王は伊勢に吹き戻され吉野に帰還、そのまま皇太子となりのち後村上天皇として即位されます。宗良親王は暴風雨で遠江に漂着、地元の宮方井伊谷の井伊道政を頼り東海、甲信越方面の宮方を指揮しました。宗良親王は劣勢の宮方を指揮され大変苦労を重ね、最後は信濃大河原(正し異説あり)で寂しく亡くなられたそうです。後醍醐天皇の皇子は大塔宮護良親王、征西将軍宮壊良親王始め皆波乱の生涯を送られていますね。

 ここで当時の常陸の情勢を記しましょう。甕(みか)ノ原合戦の敗退後自領の奥地に隠れた佐竹貞義は、常陸北朝方の半数が尊氏に従って畿内に出陣していたため、正面からの対決を避け要害金砂山、武弓山を拠点としてゲリラ戦を挑んでいました。南朝方は、なんといっても頼みの綱の奥州北畠顕家がいなくなったため単独で佐竹勢と戦わざるを得なくなります。一応、南陸奥には南朝方の奥州結城氏(結城氏の庶流)がいましたが、結城氏自身も主力を各地に転戦させていたため力にはなりませんでした。

 逆に北朝方は、奥州に足利一族の吉良・畠山・石塔・斯波(大崎)氏を派遣し着々と支配を固めます。関東にも尊氏の嫡子義詮が尊氏の弟直義の補佐で鎌倉に赴任していました。こうした情勢は、常陸南朝方小田氏らを精神的にも物理的にも圧迫し、佐竹氏には優位をもたらします。親房が常陸に上陸したときには、佐竹氏はほとんど旧領(奥七郡)を回復し、南下の気配を見せていました。

 最初、親房は小田治久の属城神宮寺城(茨城県稲敷市)に入ります。ところがすぐに佐竹氏に攻められ落城小田氏の本拠小田城(茨城県つくば市)へ移りました。親房は、この城から関東の南朝方に檄を飛ばし南朝勢力の結集を訴えます。

 次回、小田城の攻防戦を描きます。