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大内氏の防長平定  後編

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 1333年鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇による建武の新政が始まります。周防国は1334年またしても安芸国とともに大内裏造営の料国と定められ、加えて鎌倉御家人・地頭に対しても得分の二十分の一の造営費が課せられました。しかも当時は法勝寺領国となっており、周防の武士たちの不満は高まります。

 1335年、中先代の乱を平定した足利尊氏は、そのまま鎌倉に居座り建武政権に反旗を翻しました。おかげで大内裏造営は中止になりますが、今度は東大寺領に戻るという周防の国人たちにとっては踏んだり蹴ったりという状況に陥ります。

 中央では1336年足利尊氏が京都に攻め上り後を追ってきた北畠顕家軍に敗北、再起を図るために九州に落ちました。この時長門の有力豪族厚東(ことう)武実とともに大内一族の長弘(鷲頭氏を継いだので以後鷲頭と表記)が尊氏を助けます。尊氏は厚東武実を長門守護、鷲頭長弘を周防守護に任じ来る日の上洛戦に備えさせました。

 同年4月、早くも尊氏は南朝方の菊池武敏を多々良ヶ浜の合戦で撃破、筑前の少弐、豊後の大友、薩摩の島津ら有力豪族を纏め上洛の途に就きます。尊氏は厚東氏、大内氏を信用しておらず一族の上野頼兼を丹波、但馬、石見の守護に任じ中国地方の抑えとしました。尊氏が京都奪還を果たしたのと同じころ、周防では南朝方の小目代清尊(東大寺から派遣)、検非違使教乗らが義兵を募り国衙防府市)の北、牟礼村矢筈岳中腹にあった敷山験観寺に籠城、石見の南朝方小笠原長光もこれに合流します。

 北朝方の上野頼兼は石見、安芸、長門の兵を率い敷山城を攻めました。周防の武士たちもこれに従ったそうです。城は北朝軍の猛攻を受け陥落、清尊、教乗は討死しました。小笠原長光は本国石見に逃れその最期は不明です。鷲頭長弘が一応周防の守護となっていましたが、統制力が弱く周防国内は北朝南朝方の勢力が入り乱れ不安定でした。

 鷲頭長弘は大内一族の有力者ではありましたが、嫡流長弘の甥周防権介の弘幸です。国衙の事実上の長である弘幸が敷山討伐戦に参加したという記録はありません。弘幸の子弘世の時代になった時、大内宗家は周防守護鷲頭長弘に敵対を決めます。一族内の主導権争いでしたが、結果として大内宗家は南朝方に付くこととなりました。

 大内弘世(1325年~1380年)は、後醍醐天皇の皇子満良(みつなが)親王を奉じ宮方の周防守護に補されます。周防国武家方と宮方、二人の守護を頂くこととなりました。しかもどちらも大内一族という異常さです。ただ弘世の方が宗家だけに勢いがありました。一族の間で長弘だけが足利氏に取り入り良い目を見てきたという嫉妬もあったのでしょう。

 弘世は鷲頭氏の根拠地である都濃郡を攻めます。鷲頭長弘は敗北し周防国を叩き出されました。鷲頭氏を滅ぼし周防を平定した大内弘世はその野心を隣国長門に向けます。この当時南北朝時代真っただ中で畿内においても九州においても両勢力が激しく争い長門周防は権力の空白地帯となっていました。

 長門守護厚東武実は、大内弘世の侵略を迎え撃ちます。厚東氏は厚狭郡の東を根拠地としたことから厚東氏を称しました。物部守屋の子孫を称し大内氏と同じく在庁官人から勢力を蓄え武士団化した一族だと言われます。慶長検地のデータですが周防国16万4千石、長門国13万4千石で石高上長門国が不利でした。南北朝時代はこれより生産力が劣ると思いますが、両国の力関係は変わらなかったでしょう。

 大内弘世は、厚東氏との対決に先立ち本拠を大内村から隣接する山口盆地に移しました。これが山口の始まりですが、椹野(ふしの)川上流に位置し三方を山に囲まれる要害の地でした。西南には小郡があり山陽街道に接します。山陽街道は長門に入ると厚東氏の本拠棚井村(宇部市霜降城に通じました。

 厚東氏は守護所を長府に置いており、本拠霜降城と15㎞くらい離れていました。これが厚東氏の弱点となります。どちらかを捨て全力で大内軍に当たるべきだったはず。霜降城は標高250mの霜降山頂にあり防長一の堅城でした。大内弘世の長門侵攻は1355年に始まります。この時厚東氏の当主は武実の曾孫義武でした。若い義武では老練な大内弘世に抗しきれず、1358年ついに霜降城を脱出し九州に逃れます。

 南朝では弘世の功績を評価し長門守護に任じました。翌年までに弘世は長門国内の厚東残党を平定、防長二国を手に入れます。九州では懐良親王の征西府が統一する勢いで、足利幕府は大内氏の防長平定を重く見ました。大内氏が手引きして九州の南朝勢力を引き入れれば足利幕府が転覆しかねないからです。1363年、幕府は防長二国の守護職を条件に大内弘世に寝返りを工作をします。大内弘世にとっても別に南朝に忠誠心があるわけではなく、成り行き上南朝方になっただけだったので、幕府の申し出に二つ返事で帰順しました。このあたり奥州の伊達氏に似ていますね。

 馬鹿を見たのは北朝方の長門守護厚東義武です。怒った義武は南朝方に転じ菊池武光の援助を受け長門奪還の動きを見せました。関門海峡を挟んで大内氏と厚東氏は激しく戦います。足利幕府は一族の今川了俊九州探題に任命し派遣しました。大内弘世は嫡子義弘に大軍を授け了俊に協力します。当初の目的は厚東氏の息の根を完全に止めることでしたが、これにより大内氏は九州への足掛かりを持つこととなります。

 厚東義武の最期ははっきりしていません。今川了俊九州探題の勢力によって完全に滅ぼされたことだけは確かです。以後大内氏は足利幕府の有力守護大名として歩み始めることとなりました。