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北畠親房と常陸の南北朝Ⅴ   親房常陸を去る (終章)

 1341年小田城開城時、北畠親房は関城に、春日顕国は大宝城(下妻市大宝町)に移っていました。小田城内の不穏な空気を悟ってか、それとも作戦上の都合かは分かりません。だだ、親房らの不在が小田治久をして北朝方に降伏するハードルを下げたのは事実でしょう。もし親房らが城内に居たら良心の呵責から降伏を決断できなかったかもしれません。

 常陸南朝方最大の勢力であった小田氏の背信常陸南朝方を決定的に不利にしました。北朝方の常陸方面総大将高師冬にとっては残敵掃討の段階に入ったとも言えます。大宝城の城主は下妻政泰でした。この下妻氏は小山一族とされます。大掾氏族にも下妻氏がいてややこしいのですが両者の関係は不明です。どちらかが養子に入って家督を継いだか、最初大掾氏系の下妻氏を小山氏系の下妻氏が滅ぼしたかのどちらかでしょう。足利氏に藤原秀郷流と源氏系がいるくらいですからね。

 1341年12月、降伏した小田治久を従えた高師冬は兵を二分して関城・大宝城を攻めました。両城の連絡を絶たれることは南朝方にとって致命的でしたので常陸国司(南朝の)春日顕国が出撃して幕府軍を牽制します。しかし多勢に無勢で失敗してしまいました。この間南朝にとって衝撃的な報告が入ります。長年の南朝方だった陸奥の白河結城親朝北朝方に寝返り挙兵したのです。

 今まで南朝方で働いてきた小田治久や白河結城親朝の変節を酷いと思われる方も多いかもしれません。ですが彼らとて生き残らないといけないのです。それほど南朝方は各地で追い詰められていたとも言えます。一時、常陸に入っていた親房の次男顕信ですが、本来の鎮守府将軍陸奥介の職責を果たすため再び奥州へ戻っていきました。この間の顕信の動きははっきりしませんが、1339年陸奥多賀城を一時占領するも北朝方の反撃を受けて失敗。陸奥南部の霊山に拠点を移し周辺の足利方と必死に戦っていました。その後1347年霊山落城を受けて活動の拠点を出羽に移し1351年には出羽に居た事が分かっています。顕信は1362年までは奥州で活動していたようです。その最期もはっきりせず、吉野に戻って右大臣になったとも九州に下向して征西将軍宮壊良親王を補佐したとも言われます。あるいは、陸奥津軽地方に落ちて浪岡氏の祖となったという説もあります。

 白河結城氏は、八戸南部氏・伊達氏と並ぶ陸奥南朝方の柱石でした。北畠顕家の二度の上洛戦にも常に白河結城氏の軍勢が付き従っていました。親房は戦いのさなか白河結城親朝に参陣を促す書状を何通も送ったそうですが、すべてが徒労となります。常陸南朝方最期の時は刻一刻とせまっていました。

 幕府軍の包囲網はより厳しくなります。霞ケ浦を利用した水上連絡線も断たれました。1343年3月大宝城が落ち春日顕国は関城に移ります。ただこの時包囲軍の中に突入し下総結城直朝(結城本家)と佐竹義篤(佐竹氏九代、貞義の子)の軍勢百余人を討ち取った事がせめてもの救いでした。この戦いで下総結城直朝は戦死します。

 同年4月、幕府軍は関城の堀から坑道を掘って水を抜きそこを草や土で埋め足場を作って攻め立てました。関城に達する坑道も掘られたそうですから本格的な城攻めです。これを察知した南朝方は、こちらからも穴を掘り敵の坑道を潰しました。そうこうしているうちに関城の兵糧が尽きます。11月11日関城は最後の戦闘を迎えました。関城主関宗祐・宗政親子、大宝城から移っていた下妻政泰戦死。北畠親房は間一髪危機を脱し、どのルートを辿ったかは不明ですが(おそらく海路)吉野へ戻りました。

 春日顕国は、なおも常陸に留まりゲリラ戦を展開しますが1344年3月大宝城で殺害、首級は京に送られ晒されました。こうして常陸南北朝時代は終わります。常陸守護佐竹氏は、常陸の北半国を制しますが一円支配には至りませんでした。一族の悲願が達成されるのは戦国末期佐竹義重・義宣父子まで待たなければなりません。小田氏は、ぎりぎりで幕府方に降伏し滅亡は免れますが以後常陸西部の地方勢力に落ちぶれます。真壁氏らも同様、各々の所領を守りながら戦国時代に至りました。宗家が滅び一族が分裂して戦国時代を迎えた大掾氏は最終的には豊臣秀吉の小田原陣に出頭しなかった罪をとがめられ秀吉の意を受けた佐竹義宣に滅ぼされます。




 北畠親房のその後を記しましょう。常陸入りしたのが1338年、脱出が1343年、足かけ5年の活動でしたが、その間に神皇正統記と職源鈔を記すという文化的に大きな功績を残しました。しかし政治的軍事的には常陸南朝方を壊滅に追い込むという大失敗を犯します。ただ親房が下向していようといまいと常陸南朝方は最終的に滅ぼされていたと思います。

 親房は、吉野に戻り後醍醐天皇崩御後村上天皇(かつての義良親王)を補佐し北朝との戦いを指導しました。親房は、吉野朝廷から准三后太皇太后皇太后皇后三后【三宮】に准じた処遇)の待遇を受け位人臣を極めます。これは彼の権勢を現すとともに南朝に人材が払底していた証拠とも言えるでしょう。北朝方の内紛観応の擾乱を利用して一時は京都と鎌倉を回復しますがこれが南朝最後の輝きでした。

 1354年4月親房は隠棲先の賀名生(あのう、奈良県五條市)で亡くなります。享年62歳。主戦派の急先鋒として南朝を指導した親房の死によって、吉野宮廷は人材がいなくなり南北朝合一に向けて動き出しました。南北朝合一は1392年のことです。