鳳山雑記帳はてなブログ

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伊倉宮の謎

 あまりにもマイナーで超ローカルな話題なので、一般の方はスルーしてください。



 玉名市史を読んでいて疑問に思ったことがありまして、南北朝時代九州南朝の雄菊池武光が伊倉宮を擁し肥後国内で室町幕府九州探題今川了俊の軍と戦ったという記述があります。

 田原下野權守氏能申所々軍忠事。
一、去應安四年六月廿六日、致治部少輔殿【今川義範】御共、自備後國尾路津【尾道御調郡】令乘船。同七月二日夜、最前取上豐後國高崎城【大分郡】之處、菊池武光之若黨平賀新左衞門尉構要害於氏能分領國東郷【國崎郡】之間、同廿三日夜、差遣手物等、追落彼城、平賀彦次郞以下凶徒三人討捕之條、禮部【今川義範】御見知之上者、不可有御不審者哉。同八月六日、伊倉宮菊池武光以下凶徒等寄來當城之間、踏一方役所(中尾)、迄于翌年正月二日、百餘度合戰。毎度親類若黨以下數輩被疵、勵日夜軍忠、至于今。殘置親類手物等當城、抽隨分至功之次第、大將御見知之上者、不能巨細言上者也。
一、同三日、武光以下凶徒退散高崎陣、打上太宰府筑前國御笠郡】之間、同三月廿六日、馳參筑前國高宮御陣【那珂郡】。同四月八日、宰府御進發之時、令御共於佐野御陣【御笠郡】、致忠節畢。
一、・・・・・
・・・・・
以前軍忠之次第、且預京都御注進、且賜御證判。爲備後代龜鏡、粗言上如件。
    應安八年二月  日
         「承了(花押)【今川貞世(了俊)】」

 長い間、この伊倉宮という人物が謎で征西将軍宮懐良(かねなが)親王の子だろうと思ってたんですが、調べてみるとどうも違うらしいんです。

 第88代後嵯峨天皇の第一皇子で鎌倉幕府で初の皇族将軍となった宗尊親王(1242年~1274年)という人物がいました。ちなみに後嵯峨天皇崩御後起こった皇位争いを鎌倉幕府が裁定した結果持明院統大覚寺統の皇統が生まれ南北朝時代の遠因となりました。

 宗尊親王の子に豊後国早稲田庄内満吉名地頭職と円満院権僧正を賜った真覚という出家した皇子がいました。彼は早稲田宮僧正と呼ばれたそうですが、その子稙田宮宗治王とその弟早稲田宮が伊倉宮ではないかという説が有力だそうです。

 稙田宮は後醍醐天皇の猶子になっています。猶子とは公家社会や武家社会で兄弟や親族の子を自分の子として迎えたもので、養子とはちょっと違うのですが義子とされます。ということは南朝にも所縁があり鎌倉将軍宗尊親王の孫にもあたるので、南朝勢力が擁立してもおかしくない存在でした。

 伊倉宮の名前の由来は、肥後の豪族菊池氏が菊池郷伊倉で養育したからだとも、当時肥後最大の貿易港だった伊倉津(玉名市)で育ったからだともいわれます。私は当時玉名地方を支配していた菊池一族の高瀬氏が庇護していたのではないかと考えているので伊倉津説を採ります。

 兄宮稙田宮は1337年7月白木原(玉名郡臼間野荘内、現玉名市から南関町に至る一帯だと推定)の戦いにおいて27歳の若さで戦死あるいは自害しているそうなので、その後伊倉宮と名乗っているのは弟早稲田宮だろうと推定されます。

 ちなみに稙田宮に親王宣下がなされていたかどうかですが、親王とは皇位継承の有資格者を意味するのでおそらくなされていなかっただろうと思います。ただ鎌倉将軍宗尊親王の孫ということで鎌倉武士に対する影響力は大きかったように感じます。


 こうなると九州南朝が擁した征西将軍宮懐良親王と伊倉宮の関係が気になりますが、あくまで懐良親王が第一、伊倉宮はそのスペア(はなはだ不敬な言い方ながら…)という認識だったように推測します。結局、九州南朝は10年の絶頂期(ほぼ九州全土を制圧)から九州探題今川了俊に攻撃され坂道を転げ落ちるように衰退・滅亡しますから、伊倉宮(弟宮)の最期もはっきりしません。

 懐良親王墓所すら熊本県八代市をはじめいくつか伝承がありますから、伊倉宮の消息が分からないのも仕方ないことかもしれません。私は玉名市かその周辺のどこかに墓所がありそうな気がするんですが、いつか本格調査してみたいですね。