
今回の調査で最大の収穫はこれでした(笑)。
今川了俊肥後侵攻の詳細です。ちなみに彼を知らない人のために…
【今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。】(ウィキペディアより)
了俊の絶頂期ともいうべき九州南朝勢力最後の牙城、肥後をどのようにして攻略したか?その詳細が分かりましたので記事にして残しておくことにしました。ちなみに北朝年号と南朝年号があって混乱しますので、西暦で表記します。
了俊の肥後侵攻は大きく分けて二段階あります。最初の侵攻は菊池氏の本拠隈府城を目前にした水島陣で頓挫。第2次侵攻では託摩原の敗戦はあったものの、最終的に南朝勢力を肥後南部八代の古麓城に追い詰めついに九州平定をはたします。
◇第1次侵攻
1374年11月 大津山関(南関)着陣
1374年12月 目野原進出。ちなみ目野原は岩原から堂米野、姫井に至る米野山麓一帯を指していたようです。 今川軍はここを策源地にして周囲を平定。
同月、了俊嫡男義範、弟仲秋が豊後勢、肥前勢を率い岩原着陣。
1375年5月? 日岡表(水島?)で菊池勢と合戦。勝負はつかず。
1375年7月 今川軍、内田川を渡河し水島に布陣。台城包囲戦。
1375年8月26日 了俊、少弐冬資謀殺。これにより九州諸将の反発を買い水島陣崩壊。
1375年9月 了俊、水島を撤退。
◇第2次侵攻
1377年春? 筑後川渡河、肥後北部山鹿志々木原に着陣。
郡内各地で南朝方と合戦し、かなりの長期戦になった模様。最終的に今川軍の勝利に終わる。
1379年7月12日 伊倉、高瀬攻略。これでやっと海路からの補給が可能になる。
1379年8月14日 山本郡平尾城(植木町)入城。
1379年8月18日 合志郡板井城攻略、本陣を移す。
1379年8月~9月 菊池氏の重臣赤星氏の本拠木野を攻撃。史料では木野とあるが赤星、深川のあたりか?
1381年4月 木野城落城
1381年5月12日 深川城落城
1381年5月23日 染土城落城(懐良親王居所)
1381年6月22日 了俊、隈府(守山)城攻略。菊池氏、宇土から八代に退去。
1383年4月30日 懐良親王死去。
1386年秋 了俊、川尻・宇土攻略
日向米良へ逃亡か?