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戦国大名駿河今川氏Ⅲ  九州探題今川了俊(前編)

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 今川了俊(1326年~1420年)が九州探題に任命されたのは応永三年(1370年)。足利三代将軍義満はこの時わずか13歳。幕府の実権は管領細川頼之が握っていました。南北朝時代に突入して30年以上。全国的に北朝方の優位は確立していましたが、九州だけは例外で征西将軍宮懐良親王のもと南朝王国とも言うべき巨大な勢力に膨れ上がっていました。

 ここまでの九州南朝の動きを簡単に紹介しておきましょう。後醍醐天皇の皇子懐良親王が九州に入ったのは1341年。鹿児島から上陸し肥後の豪族菊池武光の元へ赴きます。武光は庶流でしたが戦上手だったために推戴され菊池家代15代当主となっていました。菊池氏は、古代豪族狗古智卑狗(くくちひこ)の末裔とも言われ肥後(熊本県)北部が地盤です。平安時代より名が知られ肥後北部から中部に渡って一族が広がります。

 鎌倉時代、守護にはなりませんでしたが守護級の実力があるのは間違いなく元寇でも活躍しています。有名な竹崎季長も菊池一族です。12代武時以来の熱心な宮方で、懐良親王が菊池氏を頼ったのは正解でした。足利幕府にとって都合が悪かったのは、尊氏の庶子直冬も九州に居た事です。直冬は家督相続の不満から足利方の筑前守護少弐頼尚に推戴され北朝方でも南朝方でもない第三勢力を築いていました。

 少弐氏がなぜ幕府を裏切ったかですが、尊氏が九州を去る時九州探題として一族の一色範氏を残したのが原因でした。筑前守護である少弐氏と九州探題職掌がぶつかり共存できない存在なのです。九州探題に抑え込まれるくらいならと、丁度九州に流れてきた直冬を迎え娘婿にします。直冬にしても大豪族少弐氏の後ろ盾を得る事はありがたく、両者の利害が一致しての事でした。

 中央で尊氏、直義兄弟の対立観応の掾乱が勃発し、直冬は直義勢力として九州に君臨します。逆に九州探題一色氏は孤立し直冬軍に攻められ敗北、弱ったところを1353年筑前国針摺原で菊池武光率いる南朝軍に大敗、九州から叩き出されてしまいました。観応の掾乱が直義派の敗北に終わると九州の直冬も孤立、中国地方に脱出します。

 少弐頼尚は、幕府に帰順しました。ここでようやく九州の北朝方はひとつになったわけですが、懐良親王南朝戦力は侮りがたい勢力に成長していました。1359年、少弐頼尚を総大将とし大友氏時、城井冬綱ら豊前・豊後・筑前筑後肥前五カ国の兵六万とも号する軍勢が、懐良親王菊池武光率いる肥後・筑後・日向、肥前南朝方四万と筑後国大保原で激突します。兵力に関しては誇張があるように思いますが、どちらも数万の大軍であった事は間違いないでしょう。(実数として幕府軍三万、南朝方一万五千くらいか?)

 筑後川を挟んで両軍は対峙し、激しく戦います。この時菊池武光は血の付いた刀を川の流れで洗ったという伝説があり大刀洗の地名が残っています。戦闘は、武光率いる菊池勢の奮戦で纏まりに欠く幕府軍の隙をつき南朝方の大勝利に終わりました。北朝方は散り散りになり敗走します。少弐頼尚筑前の山中に隠れゲリラ戦を行ったと伝えられます。

 筑後川の合戦の勝利によって、南朝方は大宰府を落としました。以後10年九州は南朝方が支配するようになります。この間幕府は斯波氏経、渋川義行などを九州探題として送り込みますが南朝支配を覆す事ができずことごとく失敗しました。

 今川了俊は、幕府の切り札として探題に任命されたのです。幕府にとっても負けられない戦いでした。了俊は嫡男義範(のち貞臣に改名)、弟仲秋とともに本国遠江で軍を整え、さらに九州遠征の根拠地として備後(広島県東部)の守護にも任ぜられていたため、この地でも兵を集めます。菊池武光が強敵であることを認識していた了俊は、慎重に準備を進めました。まず嫡男義範を豊後に上陸させ田原氏能(うじよし、大友一族)と共に高崎山城に籠らせます。弟仲秋は肥前から上陸させ同地の北朝方を糾合させました。そうしておいて1371年本隊を率い豊前門司から九州に上陸します。

 久しぶりの強力な九州探題に、それまで南朝方に抑え込まれ逼塞していた幕府方は次々と参陣します。少弐頼尚もこの時了俊の軍勢に加わったそうです。肥前豊前、豊後と三方から迫る幕府軍に防御の弱い大宰府での迎撃を諦めた南朝方は筑後高良山久留米市)を本陣に耳納山地の山岳地帯を防衛線に選びました。この時も激しい戦いが繰り広げられますが、南朝の大黒柱菊池武光が負傷し、その傷がもとで陣没します。享年45歳。

 南朝の支柱であった武光の死は衝撃を与えました。懐良親王はこれ以上の抗戦を諦め筑後南部の山岳地帯(星野)から肥後に撤退します。こうして了俊は豊前・豊後・筑前筑後南朝方から奪還しました。肥前南朝方が地盤を築いていましたが、弟仲秋を派遣し平定します。

 今川了俊は、このまま順調に九州を平定できたのでしょうか?実はこの後ひと波乱があるのです。後編では水島の変と了俊の九州探題解任、その晩年を描きます。