鳳山雑記帳はてなブログ

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元寇   Ⅰ 内外の情勢

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 元寇、それは上古の昔はいざ知らず、日本が激動の世界の歴史に初めて巻き込まれた未曽有の国難でした。
 
 いままで長々と鎌倉時代の歴史を書き綴っていたのは、まさに元寇の歴史を記さんがため。これから何回かに渡って元寇の歴史を紐解いて行こうと思います。
 
 まずは元寇に至った内外の情勢から…。
 
 
 
 
◇国際情勢   - 元朝の成立 -
 
 蒼き狼と白き雌鹿の子孫と称するモンゴル族は、13世紀一代の英傑チンギス汗のもとに結集し欧亜にまたがる大帝国を築きました。女真族の建てた金朝を滅ぼしたモンゴルは、中国大陸の淮河以北を平定します。チンギス汗の孫フビライが激しい権力闘争の末大汗の地位を得た時には、華南に余喘を保つ南宋は風前の灯でした。
 
 フビライは、モンゴル帝国の大汗であるとともに、中国風の王朝「元」を建国しその初代皇帝になります。フビライが日本を狙ったのは黄金の国ジパング伝説を信じたからだという説もありますが、もとより俗説に過ぎません。
 
 大敵南宋を滅ぼすために周辺諸国を制圧し孤立化を図ったというのが真相に近いかもしれません。確かに南宋は軍事力は弱くても、おそらく当時世界最大の経済大国でした。海外交易も盛んで豊富な富力に支えられ巨大な城壁都市で籠城されれば攻略は難しかったのです。
 
 フビライ南宋孤立化のために雲南チベット、高麗に遠征しました。日本攻略もその一環を考えるのが自然です。
 
 
 
 
◇日本の国情    - 執権北条時宗 -
 
 海の向こうで蒙古が興隆し世界を征服しつつあるという情報は、宋と交易する商人や宋に渡った留学僧らによってもたらされました。まだまだ対岸の火事という認識でしたが、一部には危機を訴える人々も出てきていました。
 
 日蓮などはまさにその代表でしょう。元の使者が初めて我が国に来た1266年、執権は五代執権時頼の叔父にあたる老齢の政村でした。時頼がわずか37歳で没したため、嫡男時宗はまだ16歳。この時は執権を補佐する連署の地位にありました。
 
 北条得宗家(嫡流)の当主として一門を治めるには時宗は若年すぎました。そのため時の将軍宗尊親王のもとでまたしても時宗排除の陰謀が渦巻きます。それに気づいたのは代々北条家と姻戚関係を結ぶ有力御家人、秋田城介安達泰盛でした。泰盛らは陰謀のかどで宗尊親王の将軍位を廃し、その子惟康親王を新将軍に据えます。宗尊親王は京都に追放されました。
 
 もともと宗尊親王は、時頼が摂家将軍九条頼嗣を廃して京から迎えたものでしたから、鎌倉将軍は完全な北条氏の傀儡でした。
 
 親王追放劇は合戦にこそならなかったものの時宗が歴史の表舞台に登場する前後は、このようなきな臭い情勢だったのです。
 
 
 
 
 次回は、元の使者を迎えた幕府と朝廷の右往左往ぶり、そして文永の役に至る歴史を描こうと思います。