鎌倉時代は執権北条氏が他の有力御家人を滅ぼして権力を独占してきた歴史といっても過言ではありません。梶原景時一族討滅からはじまり比企一族、畠山重忠一族、和田義盛一族と続きついには鎌倉幕府草創期からの功臣で北条氏に比肩しうる勢力を保持していた三浦一族にもその順番が巡ってきました。
北条家は五代執権時頼、三浦氏は義村の子泰村の時代になっていました。三浦一族の棟梁泰村は温厚篤実な人物だったと伝えられます。
前記事で、源氏の嫡流が実朝暗殺で絶え、頼朝の遠縁にあたる九条頼経が北条氏傀儡の鎌倉将軍として迎えられた話はご紹介したと思います。当時2歳の幼児だった頼経もいまや26歳。傀儡将軍に満足できず秘かに側近と語らい将軍復権を企んでいました。
しかしこの陰謀は発覚し、執権時頼は頼経を将軍の座から引きずり降ろし京都に追放します。新将軍には頼経の嫡男でまだ幼児であった頼嗣(よりつぐ)が就任しました。
陰謀に加担した側近には三浦泰村の弟光村もいました。時頼はこの事実を決して見逃しませんでした。
光村は、頼経が京都に戻される時
「必ずもう一度鎌倉にお迎えしますからしばらくご辛抱下さい」と涙ながらに訴えたと伝えられます。これが事実かどうかは定かでありませんが、いつしか鎌倉中に三浦一族が前将軍を擁して幕府に謀反を企んでいるという噂が駆け廻ります。
光村は一族でも血の気の多い人物として知られ他の御家人とのトラブルもつきませんでした。結局彼の存在が三浦一族を追い詰めることになります。
噂を聞きつけた泰村は憂慮しました。北条時頼に対し
「世間では色々取り沙汰されていますが私には何の野心もございません。指図に従いますので疑念をお解きください」と申し入れます。
しかし時頼は「今更何を言っても無駄である」と冷たく突き放しました。
こうなっては仕方ありません。三浦方も覚悟を決めます。北条方、三浦方互いに味方を募り鎌倉は一触即発の危機に陥りました。
宝治元年(1247年)は異常気象が続き人心は荒廃し鎌倉でも不穏な空気が漂っていました。両軍が緊張を強いられている中の6月5日、執権時頼は泰村に和平を求める手紙を送りました。
「冗談じゃない!今更和平を申し出たらむこうが付け上がるだけだ。構わないからさっさと三浦邸に攻め寄せよ!」
と時頼を叱ったと伝えられます。
しかし、私はどうもウソくさい話のような気がしてなりません。時頼を善人として印象付け責任を景盛に押し付けた吾妻鏡の作為のような気がするのです。時頼はそんな甘い人物ではありません。
和平の手紙を貰って安堵していた三浦方は、不意の敵襲を受けて狼狽します。北条方は三浦邸を焼き討ちし激しく攻めたてました。
そして兄に対して「ここは要害の地ですからこちらへおいで下さい」と使者を出しました。
しかし泰村は
「たとえ鉄壁の城であっても、今となっては滅亡は避けられない。お前もここへ来て頼朝公の御影のもとで共に自害して果てよう」と答えたと伝えられます。
これを聞いた光村は、手勢八十騎を引き連れ北条方の重囲を突破し兄のもとに参上しました。法華堂には一族の他に三浦氏に所縁の毛利入道西阿などが集まります。
一族郎党を前にし、泰村はその日思い出話に花を咲かせました。ただ一人光村だけは
「兄上がもっと早く決断し北条氏を討っていたならこんな事にはならなかったのに」と悔しがったそうです。
三浦勢は絶望的な戦況の中よく戦いました。北条方も攻めあぐねます。しかし多勢に無勢、最期の時は刻一刻と近づきつつありました。
「こうなれば仕方ない。死骸を敵に見られたくない。御堂に火を掛けて焼いてしまおう」という光村の発言を、泰村は押し止めます。泰村の決断で法華堂の消失は避けられました。
三浦氏は棟梁泰村を筆頭に一族郎党ことごとくが自刃して果てます。主だったもの二百七十六人、一門合わせて五百人余だったと伝えられます。
北条時頼の残党狩りは熾烈を極めました。泰村の妹婿だった千葉秀胤も本拠上総一宮において北条方の軍勢に襲撃され一族全員が殺されます。三浦方に与したものはことごとく斬られました。
この盛時の子孫が三浦氏を名乗り、蘆名氏がそこから分かれました。ただ盛時は御家人たちからは一族を裏切った者として皮肉な視線を浴びたと言われます。
これが宝治合戦と呼ばれる戦いの顛末です。
五代執権北条時頼の評価は、諸国漫遊伝説にあるように仁慈の人といわれる一方、秋霜烈日、果断の政治家だったという見方もあります。
私は後者に軍配を上げたいと思います。