初めて蘆名氏を名乗ったのは義連の孫光盛の代からだと言われますが、最初一族は鎌倉に住んで遠国の領地には赴任していなかったようです。
宝治合戦で一時滅びた三浦氏ですが、蘆名光盛の弟盛時が三浦氏を再興します。ですから蘆名氏と戦国時代まで生き残った三浦氏はかなり近しい一族という事です。ちなみにこの後三浦氏も北条氏(後北条氏)に滅ぼされるのですから歴史の皮肉です。
南北朝の戦乱のなかで蘆名氏は着実に力を付けたようです。室町幕府によって南北合一がなると蘆名一族は幕府にも実力を認められます。蘆名氏は会津守護を名乗りますが幕府の職制では奥州は守護不設置の地で、奥州探題斯波氏(大崎氏)の所管でしたが、奥州全土を現実的には支配できなかった関係から黙認の状況でした。
守護の職権である軍事指揮権・権断権・反銭の徴収権などを会津地方で行使していたのでしょう。蘆名氏の最盛期は一六代盛氏(1521年~1580年)の時でした。伊達稙宗の娘を妻に迎え山内氏を討って会津地方に勢力を拡大します。
稙宗と息子の晴宗が争った天文の乱では、初め稙宗に付きながら途中で晴宗方についたため優位が確定し晴宗方が勝利したとされるほどの実力者でした。
しかし、満つれば欠けるのが世の習い。盛氏の後を継ぐはずだった嫡男盛興は1574年27歳で若死していたため、やむなく人質だった二階堂盛隆を、盛興の後室を盛氏の養女ということにして婿にし後を継がせるという苦肉の策を施します。
しかし、これでは家臣団を統制できるはずもなく内紛の末、盛隆は1584年寵臣大庭三左衛門に斬殺され非業の最期を迎えました。その子亀若丸も1586年痘を患いわずか三歳で夭折してしまいます。
結局、佐竹派が勝ち義広が蘆名家に入り二十代を継ぎますが、この抗争により蘆名家は最盛期の力を失ってしまいました。
一方、伊達政宗は弟を養子に入れて蘆名氏を支配する野望を阻止され怒り狂います。以後露骨に侵略の手を伸ばし後継者争いで負けた伊達派の諸将に調略の手を伸ばしました。
その誘いにまんまと乗った蘆名一族の猪苗代盛国などの内応で、蘆名氏が弱体したのを見ると1589年摺上原の戦いで蘆名氏を破ります。
関が原後、出羽久保田に転封になった兄義宣に従った義広はその後も蘆名の名を名乗り続けたそうです。盛重、義勝と名を改め、兄から角館一万五千石に封じられます。
しかし、この義勝と蘆名盛興(盛氏の嫡男)の娘、岩姫との間に生まれた盛泰が1612年22歳の若さで夭折したため蘆名氏の血脈は完全に断たれました。