梶原、比企については直近の記事、畠山重忠の乱については過去記事で紹介していますので、和田合戦について簡単にご紹介します。
↓畠山重忠の乱の記事
父子間の権力闘争に勝ったのは息子義時。二代執権に就任した義時は、父時政を隠居に追い込み牧の方も出家させます。実朝に代わる将軍候補だった平賀朝雅は京都で斬られました。
和田合戦は新しく鎌倉の独裁者になった北条義時の最初の陰謀でした。
それもそのはず。謀反云々は義時のでっちあげでしたから。そればかりか義時は和田一族を挑発し立ちあがらざるを得ないところまで追いつめます。
1213年5月、我慢の限界に達した和田義盛は一族を上げて反北条の狼煙を上げました。集まった兵は百五十騎。一方待ち構える北条方は三千騎とも伝えられます。
さすがに和田勢は武勇の兵。緒戦は和田方が押しまくり大倉御所を焼き討ちします。しかし同族のはずの三浦義村や足利義氏らは皆北条方に味方し和田勢は次第に追い詰められていきました。義時は事を起こす前に周到な準備を行い必勝の体制を作っていたのです。御家人たちも自分達が生き残るには独裁者義時に付くしかなかったでしょう。
義盛ら和田一族は、由比ヶ浜に追い詰められ一族郎党ことごとく自刃して果てました。あるいは一族の朝比奈義秀らは生き残り落ちて行ったともされます。
三代将軍実朝は、北条政子の子でありながら、血なまぐさい北条氏の権力闘争にすっかり嫌気がさします。といっても兄頼家ほどの気概はなく、もっぱら和歌など芸術の道に逃げました。
しかし実朝の心は晴れませんでした。宋人陳和卿に命じて唐船を由比ヶ浜で建造したのも現実逃避の表れでしょう。結局唐船は完成せず実朝の唐への逃亡計画は挫折します。
そのころ、亡き兄頼家の遺児公暁が京都での修業を終え鎌倉に戻ってきていました。僧になる事で命を助けられていたのです。
その恨みは、現将軍実朝に向かいました。彼に父の仇は実朝であると吹き込んだ者がいるのです。通説ではこれは北条義時だといわれます。しかし冷静に考えるとすでに実朝は義時の傀儡で、その後京都から新将軍を迎えても北条執権政治に変化はないので義時の可能性はほとんどないと考えます。
では誰なのでしょうか?証拠は全くないのですが公暁が新将軍に就任して最も利益を得る人物、三浦義村が浮かび上がってきます。最初にこの説を唱えたのは作家の永井路子氏ですが、日本の歴史(中公文庫)の中で石井進氏もたいへん魅力ある説だと評価しておられます。
1219年1月29日、実朝は右大臣就任を祝うため鶴岡八幡宮に参詣しました。この日の朝、正室の坊門氏は「嫌な予感がする」と出発を取りやめるように夫に訴えたそうですが、実朝はこれを拒絶し自分の運命を悟ったような表情で出立したと伝えられます。
この日は雪が降り積もっていました。八幡宮の楼門を過ぎ本殿に至る階段を上っていると、大銀杏の陰から一人の男が現れます。(参拝の後、夜に階段を下りる途中という説も)
男は白刃を抜いていました。実朝は男の顔を確認します。甥の公暁でした。実朝はすべてを悟り瞑目します。
「父の仇、実朝覚悟!」斬りかかる公暁に実朝はほとんど抵抗せず殺されたといわれます。三代将軍実朝の最期でした。享年28歳。源氏の正嫡はここに断たれました。
いかにもありそうな話です。北条義時は執権として実朝の八幡宮参詣に同行していましたが楼門の手前で急に腹痛を訴え他の者と役目を代わっていました。このわざとらしい行為から、義時が実朝暗殺の首謀者だという説がありますが、暗殺計画を事前に知り難を避けただけという解釈も成り立ちます。
公暁は三浦勢に討たれ、事件の真相もまた闇の中に葬られました。