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三代将軍実朝の悲劇

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 梶原景時粛清、比企一族の討滅、畠山重忠粛清、和田合戦は北条氏の権力奪取の歴史であると同時に源氏将軍の権力が奪われていく歴史でもあったといえます。
 
 梶原、比企については直近の記事、畠山重忠の乱については過去記事で紹介していますので、和田合戦について簡単にご紹介します。
 
 ↓畠山重忠の乱の記事
 
 
 その前に、畠山重忠北条時政と息子義時の路線対立の犠牲者だったのではないか?と私は推理しました。
 
 北条氏の傀儡将軍を政子の息子源実朝にするのか、それとも時政の後妻牧の方との娘婿で同じ源氏一族の平賀朝雅(ともまさ)にするのかという対立です。
 
 父子間の権力闘争に勝ったのは息子義時。二代執権に就任した義時は、父時政を隠居に追い込み牧の方も出家させます。実朝に代わる将軍候補だった平賀朝雅は京都で斬られました。
 
 
 和田合戦は新しく鎌倉の独裁者になった北条義時の最初の陰謀でした。
 
 
 和田義盛といえば初代侍所別当、武骨ながら頼朝の信頼厚い御家人として有名です。和田氏はもともと三浦一族で、当時の三浦氏の当主義村とは従兄弟に当たります。
 
 
 ある時和田義盛の甥胤長は、謀反の嫌疑を受け奥州に流罪を命じられます。義盛は胤長が無実の罪であると訴えますが、執権義時はこれを受け付けませんでした。
 
 それもそのはず。謀反云々は義時のでっちあげでしたから。そればかりか義時は和田一族を挑発し立ちあがらざるを得ないところまで追いつめます。
 
 
 1213年5月、我慢の限界に達した和田義盛は一族を上げて反北条の狼煙を上げました。集まった兵は百五十騎。一方待ち構える北条方は三千騎とも伝えられます。
 
 
 さすがに和田勢は武勇の兵。緒戦は和田方が押しまくり大倉御所を焼き討ちします。しかし同族のはずの三浦義村足利義氏らは皆北条方に味方し和田勢は次第に追い詰められていきました。義時は事を起こす前に周到な準備を行い必勝の体制を作っていたのです。御家人たちも自分達が生き残るには独裁者義時に付くしかなかったでしょう。
 
 義盛ら和田一族は、由比ヶ浜に追い詰められ一族郎党ことごとく自刃して果てました。あるいは一族の朝比奈義秀らは生き残り落ちて行ったともされます。
 
 
 
 三代将軍実朝は、北条政子の子でありながら、血なまぐさい北条氏の権力闘争にすっかり嫌気がさします。といっても兄頼家ほどの気概はなく、もっぱら和歌など芸術の道に逃げました。
 
 
 北条氏の傀儡ではあっても、いや傀儡であればこそ実朝はどんどん昇進していきました。1205年正五位下加賀守右近衛権中将。1206年従四位下。1208年正四位下。1209年には従三位
 
 そして1218年には権大納言内大臣を経て12月正二位右大臣という父頼朝をも超える顕官となります。
 
 
 しかし実朝の心は晴れませんでした。宋人陳和卿に命じて唐船を由比ヶ浜で建造したのも現実逃避の表れでしょう。結局唐船は完成せず実朝の唐への逃亡計画は挫折します。
 
 
 そのころ、亡き兄頼家の遺児公暁が京都での修業を終え鎌倉に戻ってきていました。僧になる事で命を助けられていたのです。
 
 公暁の母は三浦義村の縁者で、義村が後見人となっていました。実朝は非業の最期を遂げた兄頼家の遺児を哀れに思い、鶴岡八幡宮別当職を与えて優遇します。
 
 
 実朝は京の坊門家の姫を正室に迎えていましたが実子に恵まれませんでした。執権北条義時は姉政子と相談し四代将軍として頼朝の遠縁にあたる九条頼経を迎える計画を練っていました。
 
 公暁としては、実朝の次の将軍は源氏の嫡流である自分だと思っていました。それが自分を蔑にし京都から次期将軍を迎えるという話を聞き激怒します。
 
 
 その恨みは、現将軍実朝に向かいました。彼に父の仇は実朝であると吹き込んだ者がいるのです。通説ではこれは北条義時だといわれます。しかし冷静に考えるとすでに実朝は義時の傀儡で、その後京都から新将軍を迎えても北条執権政治に変化はないので義時の可能性はほとんどないと考えます。
 
 さらにもし公暁が新将軍になると、父の仇として義時が狙われる可能性もあるのですから尚更です。むしろ義時にとって公暁は邪魔な存在でした。
 
 
 では誰なのでしょうか?証拠は全くないのですが公暁が新将軍に就任して最も利益を得る人物、三浦義村が浮かび上がってきます。最初にこの説を唱えたのは作家の永井路子氏ですが、日本の歴史(中公文庫)の中で石井進氏もたいへん魅力ある説だと評価しておられます。
 
 
 公暁鶴岡八幡宮内で側近を集め実朝暗殺の計画を練ります。
 
 
 1219年1月29日、実朝は右大臣就任を祝うため鶴岡八幡宮に参詣しました。この日の朝、正室の坊門氏は「嫌な予感がする」と出発を取りやめるように夫に訴えたそうですが、実朝はこれを拒絶し自分の運命を悟ったような表情で出立したと伝えられます。
 
 
 この日は雪が降り積もっていました。八幡宮の楼門を過ぎ本殿に至る階段を上っていると、大銀杏の陰から一人の男が現れます。(参拝の後、夜に階段を下りる途中という説も)
 
 男は白刃を抜いていました。実朝は男の顔を確認します。甥の公暁でした。実朝はすべてを悟り瞑目します。
 
「父の仇、実朝覚悟!」斬りかかる公暁に実朝はほとんど抵抗せず殺されたといわれます。三代将軍実朝の最期でした。享年28歳。源氏の正嫡はここに断たれました。
 
 
 
 一方、実朝の首をあげた公暁の運命はどうなったでしょうか?側近と共に実朝の首を携えた公暁は、後見人三浦義村の屋敷の門を叩きます。しかし門が開かれる事はついにありませんでした。
 
 
 これは永井路子氏の小説ですが、義村は実朝の首と一緒に北条義時の首があるかどうか確認させたそうです。しかし実朝の首だけである事が分かると、逆に追手を差し向け公暁を討ち果たしたといわれます。
 
 
 いかにもありそうな話です。北条義時は執権として実朝の八幡宮参詣に同行していましたが楼門の手前で急に腹痛を訴え他の者と役目を代わっていました。このわざとらしい行為から、義時が実朝暗殺の首謀者だという説がありますが、暗殺計画を事前に知り難を避けただけという解釈も成り立ちます。
 
 
 公暁は三浦勢に討たれ、事件の真相もまた闇の中に葬られました。
 
 
 北条義時は三浦一族を潜在的敵だと再認識しました。この時は公暁の首をあげた功績から不問にしますが、五代執権北条時頼の時代に、宝治合戦で三浦一族は結局滅ぼされることになります。