皇帝フビライは、高麗に日本との通交を仲介せよと命じていました。それまで30年余り、モンゴルの侵略に痛めつけられてきた高麗は、再び日本遠征の負担を強いられてはかなわないとばかりに、玄界灘が波荒く風が強く渡海が困難だという事を理由にやんわりと断りました。
帰国した使者から報告を受けたフビライは激怒します。再び高麗に派遣した使者には絶対に日本に国書を渡すよう厳命しました。
フビライの厳しい姿勢を見て諦めた高麗は、潘阜を正使とする使節を日本に派遣します。1267年11月、対馬を経て博多から上陸した高麗使節は国書(フビライの国書と高麗の添え状)を携え、翌1268年1月大宰府に到着しました。
国書はモンゴルと日本の通交を求めたものでしたが、最後にこれに従わなければ軍隊を送ることを仄めかしており要は属国になれという脅しでした。
幕府内は国書を巡って議論が噴出しますが結論が出ず、これを朝廷に送ってお伺いを立てることになります。しかし幕府でさえ結論が出ないものを朝廷が出せるはずもなくさんざん議論した末返書を出すべきではないとの結論に達しました。
おそろしく時間をかけた割に出た結論としてはお粗末なものでしたが、いままで国際外交など未経験だった日本としてはやむを得なかったかもしれません。
日本側もこの間何もしなかったわけではありません。ついに来るべきものが来たと覚悟を決めました。1268年3月、それまで執権職にあった北条一族の長老政村が連署に退き、代わって連署であった時宗が執権になります。この時時宗18歳、日本の命運は青年執権の手に委ねられました。
1269年3月には二度目の元の使者が来日します。しかし日本はこれを黙殺。同年7月に第3回の使者がやってきました。
元がすぐに日本を攻めなかったのは海を渡っての遠征に自信がなかったからだと言われています。大陸では猛威をふるったモンゴル騎兵も山がちの日本では存分に活躍できないと思ったのでしょう。
さすがに今回は日本側も返書を出すべきではないか?という声があがりました。しかし執権時宗はこれを拒否、元の使者はまたも要領を得ないまま帰国しました。
1271年、高麗では元の支配に抵抗する三別抄の乱が起こります。元がすぐに日本遠征できない理由の一つはこれがあったからです。
三別抄(さんべつしょう)とは崔氏政権のもとで組織された私兵が始まりで、後に高麗の正規軍になり、この時元の支配に抵抗し蜂起したものでした。元軍はすぐさま遠征軍を送り三別抄を攻撃しました。反乱軍は次第に半島南部に追い詰められ、日本へも救援の使者を送ります。
最後は済州島に逃げたものの1273年滅亡しました。
後顧の憂いをなくしたフビライは、高麗に日本遠征のための軍船一千艘の建造と兵員4万の供出を命じます。遠征のための兵糧も負担することとされたため高麗政府は負担軽減を何度もフビライに嘆願しましたが無駄でした。
フビライに命じられた数をそろえる事は高麗の国力からいって無理でした。そのためかなり手抜き工事がなされたと想像されます。元軍が暴風で一夜にして壊滅した理由の一つはこれにありました。
現代感覚からいうと博多湾に防壁でも築いた方が有効な対策だと思うでしょうが、外国から侵略された経験のない当時の日本からすると仕方ない対応でした。
時宗はすぐに反応しました。鎌倉における時輔の与党である名越教時、仙波盛直らを直ちに捕え斬ります。さらに北六波羅探題の北条義宗に命じ時輔を討たせました。機先を制せられた時輔方は合戦に及ぶも敗北、時輔本人はこの時斬られたとも、吉野へ逃亡し行方知れずになったとも伝えられます。
元軍二万五千、高麗軍一万、兵船900余艘。1274年10月半島南部合浦(がっぽ)を出航します。ついに賽は投げられたのです。
次回は文永の役における鎌倉武士の奮闘を描きます。