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霜月騒動と平禅門の乱

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                 ◇安達氏と北条得宗家の姻戚関係(主要部のみ)
 
 
 安達氏は北条氏とくに得宗家(嫡流)と姻戚関係を結びその外戚として大きな力を持った有力御家人です。
 
 今まで、鎌倉幕府内での北条氏の権力奪取の歴史を描いてきましたが、今回の霜月騒動平禅門の乱はこれまでの権力闘争とは性格が違います。これらは言わば北条得宗専制体制内部の争いなのです。
 
 宝治合戦で三浦氏の嫡流が滅びて以来、面と向かって北条氏に対抗できる有力御家人はいなくなりました。本稿の主人公は外戚の代表安達泰盛と、御内人といういわば北条得宗家の家臣にすぎないものが、得宗専制体制の確立と共に大きな権力を握った存在、その代表である内管領平頼綱(出家した後は平禅門と呼ばれる)です。
 
 一連の事件はこの二人の政治的対立がもたらしたものでした。
 
 
 話は、鎌倉幕府八代執権北条時宗が1284年34歳の若さで死去した事に始まります。時宗の治世は元寇に始まり元寇に終わるといってもよく、未曽有の国難に神経をすり減らした結果なのかもしれません。
 
 あとを継いで九代執権に就任したのは時宗の嫡男、貞時でした。この時わずか13歳。こんな少年に統治出来るはずはなく外戚(母の兄)安達泰盛がこれを補佐する事になりました。
 
 
 安達氏は、代々北条得宗家と姻戚関係を結び平安時代の藤原摂関家のような存在となっていました。秋田城介(出羽国国司で秋田城留守居役。頭が不在の時は内政を統括した次官。陸奥国多賀城留守職に同じ)という武家の中でも権威ある官職を代々世襲し、いわば御家人筆頭として幕府に重きを成す一族でした。
 
 一方、平頼綱はもともと北条得宗家の家臣、御家人たちから見ると陪臣という低い身分の存在でした。しかし得宗専制体制が確立すると内管領といういわば北条氏の私的機関にすぎない役職が大きな権力を握ってくるのは自然でした。
 
 御家人たちは頼綱の顔色を窺わなければ生きていけなくなっていたのです。
 
 
 安達泰盛平頼綱が幼君貞時を巡って権力闘争を始めるのは自明の理でした。両者は互いに秘かに軍勢を集め機会をじっと待っていました。
 
 
 最初に行動に移したのは頼綱でした。ある時少年執権に耳打ちします。
「泰盛の子宗景が『父祖の景盛は実は故右大将家(頼朝)の御落胤であった。故にわが家は源氏である』などと吹聴しております。これは将軍位を狙う陰謀ではありますまいか?」
 
 貞時に事の真偽が分かるはずもありません。頼綱の巧みな言動に惑わされ安達一族追討を黙認します。
 
 そうしておいて1285年11月17日、頼綱は挙兵しました。不意をつかれた安達方は戦の準備もままならぬまま泰盛と嫡男宗景が鎌倉で討たれ安達氏が守護をしていた上野、武蔵を中心に関東各地で与党とみなされた御家人が五百人余も討たれたといいます。
 
 これが世にいう霜月騒動です。
 
 
 内管領平頼綱は少年執権を擁しこれ以後絶大な権力を握る事となります。彼は北条得宗家の専制体制を一層強化しました。それは同時に自分の権力を高めるためでもありました。恐怖政治は鎌倉中を支配し人々は気の休まる暇もありませんでした。
 
 
 それまで幕府の重要な機関であった評定衆は有名無実の存在となり寄合衆という北条一門がほとんどを占める新たな機関が設けられました。もちろん内管領である頼綱の意向が強く反映されたのはいうまでもありません。
 
 
 頼綱は、他の御家人の力を弱めるため各国の守護の半数近くを北条一門に交替させます。北条一族を統べるのは得宗家、そしてその得宗家を操っているのは自分。
 
 
 しかし、元寇の軍事負担と細かな分割相続で苦しんでいる御家人層はこれを深く恨みました。元寇という言わば外国との戦争では恩賞としての土地も貰えないのですから尚更です。頼綱としてもこれは分かっていたらしく没収した安達一族の所領をこれら元寇に功績のあった御家人に一部与えましたが、焼け石に水でした。
 
 
 九州においても安達泰盛の与党と見られた少弐景資が殺されます。泰盛の次男で肥後守護であった安達盛宗とともに討たれたのです(岩門合戦)。
 
 
 これには頼綱が元寇の恩賞の土地を確保するために計画的に彼らを追い詰めたという穿った見方もあります。
 
 
 少弐氏では、頼綱方についた景資の兄経資が追討軍の大将となります。頼綱のえげつないやり方はますます御家人たちの憎悪の対象になりました。
 
 
 反対者を容赦なく粛清するという頼綱の恐怖政治は長くは続きませんでした。執権貞時が成長すると、頼綱の強引なやり方を不満に思い始めたのです。実権を頼綱に奪われているという強い不満もありました。
 
 
 そんな中、頼綱の嫡子宗綱が貞時にささやきます。
「父杲円(こうえん 出家後の法名)は次男の助宗(宗綱の弟)とともに専横を振るいいずれは助宗を将軍に就けようとたくらんでいます」
 
 どこかで聞いたような話ですが(苦笑)、頼綱と宗綱の親子関係は上手くいってなかったと伝えられます。それにしてもいかに憎いからといって自分の父を売る行為のおぞましさはどうでしょう?
 
 
 貞時も不安に思っていた時であリ、この讒言は渡りに船でした。1293年4月13日鎌倉を大地震が襲います。鶴岡若宮、将軍邸宅、建長寺以下多くの建物が倒壊、あるいは消失し実に二万人とも言われる死者を出しました。
 
 
 その混乱も冷めやらぬ同年4月22日、貞時の命を受けた武蔵七党の御家人たちの軍勢が鎌倉経師ヶ谷(きょうじがやつ)の頼綱の屋敷を急襲します。不意をつかれた頼綱は抗戦むなしく焼け落ちる屋敷の中で次男助宗とともに自害して果てました。この合戦の延焼でさらに平一族を中心に百名以上の犠牲者が出たそうです。
 
 一方、讒言し父と弟を売った宗綱はいち早く出頭し命だけは助けられます。しかし罪は免れぬとして佐渡へ配流となりました。が、のち許されて内管領になります。
 
 
 これが平禅門の乱の顛末です。ところが頼綱の後に内管領に就任したのは頼綱の一族長崎光綱。彼の子が有名な長崎円喜入道です。こうしてみると何のために平頼綱を討ったのか分からなくなります。
 
 
 一時期、北条貞時が実権を取り戻し執権政治の最盛期を築きますが、彼が死んで凡庸な高時(貞時の三男)が後を継ぐと内管領長崎円喜入道が権力を振るう独裁政治に逆戻りするのです。
 
 
 
 高時を凡庸な暗君として、幕府滅亡を彼一人のせいにする見方が多いですが、元寇を引き金に生じた諸矛盾は誰が後を継いでも解決不可能となっていたのです。その意味では高時は不運であったとも言えますね。