玉名を中心とした菊池肥前家の興亡は、高瀬津を擁する同族高瀬氏との強い絆があって初めて成立したと思います。
強大な大友氏に曲がりなりにも政隆が抵抗できたのは高瀬津、伊倉津を通じた明や高麗との海外貿易の莫大な利益がかなりの部分寄与したはずです。玉名郡内の諸将とも貿易の利潤での結びつきが強かったのかもしれません。
阿蘇氏から入った他所者の武経には海外交易の権利はいかなかったように思えます。大友氏の傀儡であった武経は次第に菊池家中からも軽んじられ、いたたまれなくなった武経は、1511年菊池家督を放り出し隈府を出奔します。
1517年、肥後を追われた阿蘇惟豊は甲斐親宣らの支援を受け逆襲に転じます。惟長、惟前父子は敗れて薩摩へ逃亡。惟長は後に肥後に戻る事は出来たものの1537年堅志田城で野心に満ちた58年の生涯を終えました。
一方、当主に逃げられた菊池家はどうだったでしょうか?豊後の大友義長は1518年に死去しますが、死に際し後継ぎの嫡男義鑑(よしあき)に「必ず十郎義国(義鑑の弟。後の菊池義武)を肥後守護にせよ」と遺言したといわれています。
1511年武経の逃亡はその最大のチャンスでしたが、この時それが実現できなかったのは菊池家と何の関係もないばかりか宿敵でもあった大友氏が後を継ぐのが無理筋であったからに他なりません。
義長は、この時巧妙な手を思いつきます。義国後継の前にワンクッション置く事です。白羽の矢が立ったのは託摩武包。
武包はこうして菊池家家督を継ぎますが、あくまで大友氏の傀儡にすぎません。義長は武包に菊法師丸(十郎義国)を養子に迎えさせ合法的に菊池家を乗っ取る所存でした。
武包の菊池家家督期間は1511年から1519年の9年間だといわれています。菊法師丸肥後入りの時期は不明ですが、武包は傀儡ながらも大友氏の菊池家乗っ取りに抵抗したようです。
1516年、名和氏と相良氏が豊福城を巡って再び争います。大友義長は菊池家重臣の鹿子木親員入道寂心(かのこぎちかかず にゅうどうじゃくしん)、田島重賢らを派遣してこれを調停させたといいますから実質的な肥後の実権はすでに大友義長が握っていた事になります。
ここで出てきた鹿子木寂心は、中原氏流といいますから大友氏とも近い家系でした。一説では大友初代能直(よしなお)の弟師員(もろかず)が初代とも言われ飽田郡鹿子木庄の領主。寂心時代には鹿子木東・西庄を中心に五百五町歩を領していました。
これに関し、玉名市史では重賢の重用は大友義長の高瀬津重視の表れではないか?と推理しています。政隆の抵抗が高瀬津からの海外貿易収入で成されたという事は、大友氏にとっても見逃せない事実でした。
大友氏肥後支配のかなりのウェイトが高瀬津・伊倉津を通じた海外貿易にあったのは想像に難くありません。そんな中で台頭してきた人物が田島重賢だったのでしょう。
義長の菊池家乗っ取りの野望は、自身が1518年死去した事で頓挫します。彼の遺言はその悔しさから出たのでしょうが、逆に言うと傀儡政権の武包が抵抗したからに他なりません。
これは菊池肥前家の領地が高来郡にあった事とも関係していると思います。島原の領主有馬氏とも深い関係があったのでしょう。菊池家家督争いで玉名郡内に挙兵、敗れて島原半島に逃亡、有馬氏の援助で高瀬上陸というのはパターン化していますから。
これまでは何回も成功した高瀬再上陸ですが、この時は成功しませんでした。それだけ大友氏の肥後支配が強固になってきていたのでしょう。
もしかしたら菊池肥前家の領地がこのあたりだったのかもしれません。
次回は、菊池家最後の当主菊池義武の生涯と菊池家滅亡を描きます。