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続菊池一族の興亡・滅亡編  ④義武の章

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 菊池家最後の当主(二十六代)になった義武については評価が別れています。本家大友家を乗っ取ろうとした野心家であった、あるいは大友氏の肥後支配の矛盾を背負って死んでいった犠牲者だったなどなど…。
 
 私も結局彼の人物像は分かりませんでした。
 
 菊法師丸、義国、重治、義武と何度も名前を変え紛らわしいので本稿では義武で通します。義武の肥後入りについては諸説あります。
 
 1517年という説は、義長死去一年前でこの時すでに肥後守護代になっていたとされますが私は可能性が低いと思います。
 
 有力な説としては1520年で大友義鑑が菊池武包を肥後守護から追った年に肥後入りしたとされますが、こちらのほうが可能性高いでしょう。
 
 
永正17年(1520年)2月10日 豊後府内出発
            4月13日 肥後隈府入り
            4月28日 隈本城入り
 
史書は伝えています。
 
 義武が何故菊池氏累代の本拠地隈府を選ばず、隈本城に入ったか?ですが旧来の家臣団である隈部・赤星・城氏等を嫌ったためだといわれています。確かに彼らは菊池宗家に対する忠誠心も薄く平気で主君を裏切るという前科がありました。義武は裏切りを行った相手先の大友家出身であったため尚更信用出来なかったのでしょう。
 
 義武は、父義長の代から忠誠を誓っている鹿子木寂心、田島重賢らの補佐を受け隈本城で新しい肥後統治に入りました。隈本移転はもしかしたら兄義鑑の指示だったのかもしれません。
 
 この時以来肥後国の中心は隈府(菊池市)から隈本(熊本市)に移りました。
 
 有能な両名の補佐を受け、義武治世の滑り出しは順調でした。先代武包の抵抗はあったものの戦は兄義鑑の命令を受けた肥後国人たちが担当します。
 
 まもなく武包は島原で死去。名実ともに義武が菊池家督肥後守護を継承する事となりました。
 
 
 このまま無事に過ごしてくれれば、兄義鑑の傀儡として平穏だったかもしれません。しかし義武には野心がありすぎました。成長するにつれ次第に独立の気配を見せ始めます。強大な大友家に敵対する愚は菊池家臣団の恐慌を呼びました。重臣で菊池一族の木野親則は暴走をはじめた義武を諫言します。
 
 しかしかえって義武の怒りを買い手討ちにされました。これが菊池家臣団との折り合いを悪くさせ義武をますます孤立化させます。
 
 1534年、義武は河崎・三池・西牟田・蒲池ら筑後南部の諸氏と連合して兄大友義鑑に対し兵を挙げます。怒った義鑑は軍勢を肥後に差し向け義武の本拠隈本城を攻めました。多勢に無勢、敗れた義武は南部へ逃亡、緑川を挟んで川尻で大友軍と対峙します。
 
 しかしここでも敗北し相良義滋(よししげ)を頼って相良領に逃れました。菊池家臣団や肥後国人たちの多くが義武に同調せず大友方に付いたのが敗因です。
 
 天文12年(1543年)、大友義鑑はみずから肥後守護になります。これで代々続いてきた肥後守護職を菊池家は失う事となりました。
 
 それでも義武は諦めませんでした。義武を支えた二人の重臣ですが明暗がはっきりと分かれます。鹿子木寂心は義武が大友氏から離反する事に反対でした。最後まで行動を共にせず1536年には大友方に転じたそうです。田島重賢は落ち目の義武に最後まで付き従ったとされます。
 
 鹿子木庄の領主であった鹿子木氏と、大友義長に引き立てられた新興武士である田島氏との違いといえばそれまでですが、この決断で田島氏は結局滅ぶ事になります。
 
 
 義武は、相良氏の援助で何度も旧領奪還の戦を仕掛けたそうですが、強大な大友軍の前になすすべもなかったそうです。
 
 そんな義武に最大のチャンスが訪れます。天文19年(1550年)二階崩れの変です。義鑑が病弱の嫡男義鎮に代わって溺愛する三男塩市丸を後継者にしようとしたため、大友家臣団が義鎮派と塩市丸派に分かれて暗闘した末でのクーデター劇でした。
 
 義鎮派の津久見美作らは大友館二階で寝ていた塩市丸とその生母を斬殺、この時傷を受けた義鑑も数日後に死去します。大友氏家督戸次鑑連ら家臣に擁立されて義鎮が継承しました。クーデターの首謀者を義鎮本人とする説もありますがはっきりしません。
 
 大友家の混乱は肥後の義武を利しました。義武は瞬く間に肥後を占領します。しかしこれは消えゆく蝋燭の最後の煌きに過ぎませんでした。
 
 
 体制を立て直した大友義鎮(後の宗麟)は、その年のうちに二万の大軍を義鎮自らが率い肥後に侵入します。肥後の国人たちは義武に嫌々従っていたのでしょう。大友軍が隈本城を囲むと義武は碌に抵抗もできず、側近の百余騎を率い金峰山方面(熊本西北部)に逃れました。
 
 この地の豪族山の上の三名字(牛島・田尻氏ら)を頼って大友軍と一戦を交えますが鎧袖一触、漁船で島原に逃亡したといわれています。
 
 義武は旧菊池氏家臣団の決起に期待していたそうですが、 人心は既に離れていました。最後まで菊池義武に従って大友軍に抵抗したのは竹迫(たかば)城の合志氏のみだったそうですから哀れを誘います。
 
 この後義武は、相良氏を頼って肥後南部に移動しますが相良氏にとっても迷惑な話でした。大友義鎮は相良領から義武を追放するよう要求します。相良領にもいたたまれなくなった義武は、今度は薩摩の島津氏を頼ろうとしますが、これも断られ万事休しました。
 
 義武は再び相良領に舞い戻り、球磨郡を通って日向に逃れようと考えます。しかし誰もそれを援助しようとはしませんでした。
 
 義武一行の逃避行は1554年まで続けられます。義武を支えた二人の重臣のうち鹿子木寂心は大友義鎮に早くから仕え飽田郡内に新たな領地を貰うほど優遇されていました。一方田島重賢は最後まで付き従ったようです。途中の合戦で討ち死にしたか、義武の最後の地で殉じたかは分かりません。
 
 1554年10月11日、義武は子の則頼を伴って肥後八代に現れます。大友義鎮は使者を出してこれを豊後国内に迎えようとしました。
 
 義武にも自分の運命が分かっていたのでしょう。八代妙見社や成願寺に参り15日豊後を目指して旅立ったといわれます。
 
 豊後に入った直後義鎮の差し向けた討手に討たれたとも、包囲されたまま覚悟の自害をしたとも伝えられています。最後までつき従った家臣も同じ運命を迎えます。波乱に満ちた生涯でした。享年51歳。
 
 
 義武の墓は、自害の場所である大分県竹田市法泉の法泉庵跡に残っています。こうして名実ともに肥後守護職菊池家は滅亡しました。
 
 
 
 
 菊池家の血脈は、日向米良庄に逃れた能運の子重次によって伝えられます。重次の子孫は米良氏を称し戦国・江戸時代を生き抜き、明治維新後は菊池姓に復し男爵に列せられました。これは南北朝のころの菊池氏の忠節に報いるためだとも言われています。
 
 
                               (完)