なかなか政隆が登場しないとご不満の方も多いと思いますが(苦笑)、菊池宗家と菊池肥前家の関係を説明しておかなければ後々分かりにくくなると思いご紹介した次第です(汗)。
菊池氏二十一代重朝(1449年~1493年)の時代は肥後守護家菊池氏にとって散々な時代でした。宇土為光の乱だけではなく一族の反乱が後を絶ちませんでした。あるいは先代為邦末期のことともされますが、為邦次男、重朝弟の武邦の乱などもそのひとつです。
1467年中央で応仁の乱が始まると重朝は初め東軍に味方したといいます。これは西軍の有力武将大内氏を牽制するため細川勝元が筑前の少弐教頼を動かし北九州の大内勢力を攻撃した動きに呼応するものでしたが、筑後支配権を巡る宿敵大友氏も東軍であったことから、まもなく西軍に転じ大内氏と結んで筑後へ出兵します。
重朝は肥後各地の騒乱に介入します。その一連の流れの中で起こった最大の動きが宇土為光の乱でした。
幕の平合戦と呼ばれるこの決戦で重朝方は敗れます。合戦の結果名和氏と相良氏の間で争われていた豊福城は相良氏の所有になりました。
重朝は菊池家中に対する統制力も失いました。以後赤星・隈部・城氏ら有力家臣はそれぞれ勝手に動くようになります。能運の死後阿蘇惟長(惟憲の子)を菊池家督に迎えようとしたり隣国豊後の大友義長と結んで息子の重治に菊池氏を継がせようとしたのも元はといえば重朝の家中統制力不足が招いたものでした。
重安は文亀元年(1501年)、反守護方の隈部氏との合戦で戦死します。後を継いだのは子の政朝(1491年~1509年)。生年から考えてもわずか10歳の少年でした。
母は高瀬泰朝の娘。のちに高瀬氏当主となった武基はその甥にあたります。
菊池氏二十二代能運(1482年~1504年)は長年の宿敵宇土為光を滅ぼしますが、玉祥寺原で行われた為光との最後の決戦で受けた矢傷がもとでわずか23歳の若さで亡くなりました。
しかし、肥後守護職菊池家の内情はガタガタでした。菊池家臣団の中にも政隆の家督相続に不満をもつものが多くいました。有力家臣内古閑次郎左衛門尉を中心に22名が連名して阿蘇惟長に菊池家督を継ぐよう要請します。これは明らかに反逆でした。しかし隈部・赤星・城ら有力家臣が同調し惟長は隈府(菊池市)に入り家督を相続(というより簒奪)し、菊池武経(たけつね)を名乗ります。惟長、菊池家臣団は大友義長とも裏で通じていたといわれます。
14歳の政隆は、惟長の隈府入りに抵抗したそうですが敵方に大友勢まで加勢したので多勢に無勢、敗れて所領の玉名に退去します。
1505年10月合志郡木庭で両者は合戦しました。このとき城政冬、隈部忠豊、内古閑重載らが政隆方に寝返ったそうです。これらは系図を見るとそれぞれの嫡流ではありませんから同じ家臣団の一族間でも政隆・武経の正嫡論争があったのだと想像されます。
終始政隆方だったのは母の実家高瀬氏や玉名郡内の諸将(小代氏など)だけだったような印象があります。
しかし政隆はこの合戦で敗れます。まだ二十歳にもならない少年、しかも劣勢の中では勝利は難しかったのでしょう。政隆は筑後に逃亡を余儀なくされました。
しかし政隆方の動きも活発で、まもなく政隆は本拠の玉名を回復しました。二年後の1507年7月今度は大友義長が中心になって攻めよせました。これを見ても武経は大友氏の傀儡政権にすぎなかった事が分かりますね。
大友・武経の連合軍は木庭・山鹿・隈本・山本・内古閑と政隆方の諸城を攻め落としました。これを見ると武経は菊池周辺しか抑えていなかったように見受けられます。隈部・赤星・城氏も次第に武経に距離を取り始めていました。
政隆は小代氏を頼り小岱山筒ヶ岳城に籠城しますが間もなくここも陥落、肥前島原に逃亡します。1509年城政元、隈部鎮治の後押しで再び高瀬に上陸、玉名郡臼間荘桜馬場で大友方の将朽綱親満に敗れ、久米原でも敗北を重ね万事休しました。