鳳山雑記帳はてなブログ

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日向米良(めら)氏の謎

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 前記事に引き続き、超マイナーな宮崎ローカル史ネタです。あまり興味を持つ方はいないと思いますが(苦笑)、長年の疑問が解決した嬉しさで記事にしてしまいました!
 
 宮崎県の西部九州脊梁山地の奥深く、米良(めら)地方に米良氏という豪族がおりました。少しでも興味を覚えてもらうために映画「もののけ姫」で主題歌を歌った米良美一氏がたぶん子孫らしいというコアネタを投下しておきます。本名だったら多分そう。宮崎県西都市出身だし。米良地方は今の西米良村西都市の西半分を含みますから。(ちなみに前記事の椎葉地方の南にあたります。どちらも山岳地帯で貧しい地方でした。)
 
 簡単に米良氏の略歴を記しておくと、肥後守護菊池家嫡流最後の当主能運(よしゆき、1482年~1504年)が一族の有力者だった叔父、宇土為光と家督を巡る争いを起こした時、一時劣勢に陥り最後の決戦前に後顧の憂いを断つため、嫡男重次(重為とも)を含む妻子を弟重房に託し日向米良地方に落としたのが始まりといわれています。
 
 結局菊池能運宇土為光との決戦には勝ったものの、その時の矢傷がもとで亡くなり以後菊池家は家督を巡って一族が相争い急速に弱体化、最後は豊後の大友宗麟に滅ぼされました。
 
 こういった事情でしたから能運は妻子を呼び戻す余裕も時間もなく、しかたなく重房は甥重次をもりたて米良地方に土着したといいます。この重次が米良氏初代で、以後米良庄を中心に日向内陸部に勢力を張り、一族が各地に広がり伊東氏や相良氏など近隣の大名に仕える者も出てきました。お世話になっている保科媛さんのブログ
で紹介されている大河平(おこびら)氏なども米良庶家のひとつです。
 
 米良氏は戦国の荒波を上手く泳ぎ切り関ヶ原では徳川家康に味方したことから、本領安堵を勝ち取り隣国人吉藩相良氏の付庸(独立は認められているものの宗主国【この場合は相良氏】に従属して保護を受ける関係)となります。その後子孫は表交代寄合の一家となり、代々石高は一万石に満たないものの大名並の扱いを受け幕末に至りました。
 
 
 ところで、米良氏ですが重房、重次下向以前(1503年より前)にどうも菊池系の米良一族がいたらしいのです。重次一行を重房の叔父武照が出迎えたという記録があります。この武照は武家家伝の系図では能運の父、重朝の弟となっています。ただ他の系図では載っていなくてはっきりしません。
 
 
 
 ここからは私の勝手な想像で資料的な裏付けはないんですが、菊池氏は万が一のために日向米良地方を一族の避難場所にしていたのではないかと考えています。
 
 といいますのも、南北朝時代菊池一族は何度か本拠隈府城(わいふ、現菊池市)を追われ行方不明になった時期があるのです。そして敵の勢力が衰えた時忽然と現れ旧領を奪回したということが何度となくあります。
 
 私は五家荘(ごかのしょう、これも熊本県東部の山岳地帯)あたりに隠れていたと想像していましたが、それなら米良まで下っても不思議ではないし、ある程度地盤を持っていなければ再起もおぼつかないだろうと考えた次第です。米良も椎葉も五家荘も平家落人伝説があるくらいですから人跡未踏の秘境です。下界の人間がおいそれと近付く事が出来ないからこそ、戦いに敗れた勢力が逃げ込むには絶好の土地だったのでしょう。
 
 私の想像では、菊池氏が米良地方と関係を持ったのは南北朝時代、もっといえば菊池武光北朝方の守護、畠山直顕(ただあき、なおあき)討伐で日向に入った時に目を付けたのではないかと考えています。
 
 以後、菊池氏の最後の逃げ込み場所、再起のための隠れ里として米良に一族を派遣し支配を固めていたのではないでしょうか?
 
 ちなみに大河平氏(詳しくは保科媛さんのブログ参照)は菊池氏六代隆直の三男菊池五郎隆俊が八代に入り八代氏を名乗ったのが始まりとされますから宗家とはかなり離れています。しかも米良に下った時期が大友氏との争いの後(おそらく大友氏から菊池氏に養子に入り家督を継いだ大友義武と大友義鎮(宗麟)との合戦)だそうですから、米良と菊池一族とのネットワークを頼って逃げ込んだのだと思います。
 
 
 武家家伝米良氏で、幼君重次を擁して肥後から米良に入った重房一行に対し、鈴木・銀鏡・奥松ら米良の豪族らは山民を引き連れて出迎えたとされます。菊池家嫡流の重次が米良一族の惣領となるのは自然なことだったでしょう。こうして重次の子孫たちが米良一族をまとめ団結して日向内陸部に勢力を扶植していったのだと考えます。
 
 
 これが一番自然な解釈だと思いますが、皆さんどう思われますか?と、その前に誰も読んでないか?(核爆)