実は二人の間に生まれた子供の子孫がその後連綿と続き日向国(宮崎県)椎葉地方の領主として戦国時代まで続いてきたのです。
戦国時代当時、椎葉地方には那須大八郎の子孫と称する那須十三人衆と呼ばれる豪族が支配していました。地図を見てもらえば分かると思いますが、九州脊梁山地の奥深く貧しい土地でしたから地域としては広大でも石高はおそらく一万石にも満たない、下手すると五千石くらいだったかもしれません。
そんな土地に十三人も土豪がひしめき合っていたんですから各勢力は庄屋(東日本では名主)に毛が生えた程度の勢力だったと想像されます。
日向平野部の勢力もあえて貧しい山間部に侵攻しようとはせず、反抗しなければ本領を安堵するという緩やかな従属関係で満足していました。戦国時代に日向最大の勢力を誇った伊東氏もそういう関係を那須一族と結んでいたのです。
そのなかで椎葉向山城主(むかいやま、東臼杵郡椎葉村不土野向山日当)那須弾正と小崎城主(東臼杵郡椎葉村大河内小崎)那須主膳の兄弟と大川内城主(おおかわうち、東臼杵郡椎葉村大河内城)那須兵部大夫は那須三人衆と呼ばれ、それまで対等であった十三人衆の中で優位に立ちます。
というのは那須弾正が秀吉の鷹匠であった落合新八郎を饗応したことで気に入られ鷹巣山管理の御朱印状を与えられたのです。中央政権が徳川家康に代わっても御朱印状は受け継がれそのために那須兄弟と兵部大夫(これも兄弟といわれる。そうでないにしても近しい一族であった事は間違いない)は椎葉領の指導的立場となり他の那須一族を支配しました。
弾正は子供のころから利発で学識も豊かだったと伝えられます。そのために落合新八郎の価値に気付き手厚い接待をする事で御朱印状を勝ち取るのですから並の男ではありませんでした。
一番怨嗟の対象になっていたのは弾正でしたから、一揆勢はまず向山城に攻めよせます。弾正は死去し息子久太郎が跡を継いでいたとも言われますがどちらにしろこの時殺されるので同じ事です。
ところでこの城には主膳の息子仙千代もいました。15歳、横笛が巧みで紅顔の美少年だったと伝えられます。叔父弾正は好学の士で書物も豊富でしたのでそれを学ぶために滞在していたそうです。
仙千代は気立ても優しくむしろ領民からは好かれていましたが、殺気立ち理性を失っている一揆勢は弾正と共に仙千代も斬殺してしまいます。城に火をかけられことごとく焼失したといわれますから恨みの深さがわかります。
最愛の一人息子を殺された主膳でしたが、一揆勢に報復することなく単身江戸表にでて幕府にこの事を訴えました。事態を重く見た徳川幕府は阿部四郎五郎正之、大久保四郎左衛門忠成に一揆の鎮圧を命じ九州に下向させます。
実際の鎮圧は隣国人吉藩相良氏に出兵命令が下りますから、もしかしたら人吉までは来たかもしれません。
同じ日向国内の延岡藩ではなく他国であった肥後人吉藩になぜ命令が下ったかですが、延岡藩(当時有馬氏)は地元の大名ではなく、他所者を椎葉領に入れれば火に油を注ぐとの判断でしょう。その点人吉相良氏は鎌倉以来の土着大名で昔から日向との交流もあったことから白羽の矢が立ったものだと推察されます。
自分に関係のない相良氏にとってはいい迷惑だったと思いますが幕府の命には逆らえません。主膳の案内で椎葉領に入り首謀者であった反御朱印派の那須一族を捕え関係者140人余りを斬首したと伝えられます。一揆側の女性たちもことごとく自害するなど戦後処理は過酷を極めました。
またもや関係ないことで人吉藩にとっては迷惑この上なかったでしょうが、椎葉は明治維新まで天領として続きました。幕府の命令とはいえ不公平な裁定をした張本人でもある人吉藩としてはさぞかしやりにくかっただろうと同情します。
那須大八郎と鶴富姫のロマンスが、時代を経てこのような凄惨な結末になるのですからやり切れません。
伝説では椎葉の平家落人たちは平和を願う愛すべき人たちだったのですが…。