肥後国衆一揆とは…
『肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)とは、1587年(天正15年)に起こった肥後国人による一揆。肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき)ともいう。
守護菊池氏の衰退の後、戦国時代に突入した肥後国は国人割拠状態が続いた。天正年間の一時期、肥後国は島津氏の支配下に置かれたが、1587年(天正15年)5月豊臣秀吉の九州征伐が開始されると、島津氏は圧倒的な軍勢の前に屈服、薩摩・大隅に押し戻された。同年6月、52人の肥後国国人が秀吉から所領を安堵され、肥後国を拝領した佐々成政の家臣団に組み込まれることになった。秀吉は成政に肥後国を与えるにあたって、国人が一揆を起こさないよう3年間検地を猶予するよう厳命した。これに違約して一刻も早い肥後国の領国化を望んだ成政が、性急に検地を進めたために国人の不満が一挙に爆発することになる[1]。』(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
この前、何かに引っ張られるように訪れた城村城(じょうむらじょう)跡。肥後国衆一揆最後の拠点として首謀者隈部親永以下一揆勢1万5千が籠った城です。
はじめここにいく予定ではなく、同じ山鹿市の相良(あいら)観音と矢谷渓谷を訪れるはずでした。ところがどこをどう間違ったのか、国道443号線を外れてどんどん北の方に向うではないですか。全く無意識でしたが、きっと呼ばれていたのでしょう。
これも何かの縁と思い写真を紹介します。城跡は岩野川西岸の河岸段丘の縁にあります。一番端っこの段丘上が本丸、そこから西に広がっています。本丸の東側は深田が広がりなかなかの要害です。
写真は西の大手から本丸に向かってるところです。正しい道を選択するのが奇跡のような、車一台やっと通れる集落の道を抜けて茶畑の中の城跡に辿り着きました。
ここで多くの一揆勢が秀吉軍の攻撃で亡くなったので、ご冥福をお祈りいたします。うちのご先祖様は立花宗茂家中なので攻めた側です。ですからなおさら感慨ひとしおでした。