鳳山雑記帳はてなブログ

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肥後における加藤清正①  仏木坂の一騎打ち

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 皆さん、加藤清正(1562年~1611年)というとどのようなイメージをいだかれていますか?豊臣秀吉子飼いの武将、賤ヶ岳の七本槍、朝鮮での虎退治など勇猛な武将というイメージを持たれる方も多いと思います。一方内政にも意を尽くし領民から慕われる存在だったという話を知っている方もいらっしゃるでしょう。
 
 
 清正は肥後52万石(現在の熊本県)の領主として、その後幕末まで支配した細川氏よりもはるかにイメージが強いというのも事実です。
 
 しかし地元肥後でも、優れた統治者として感謝しつつも結局は中央政権から派遣された支配者だったという側面から微妙な感情を持っている人も多かったそうです。
 
 加藤清正を語る上で、ある一族との関係を肥後人は伝えています。この話を語り伝えたのは肥後人の心の奥底に潜む複雑な感情だったのかもしれません。
 
 その一族とは木山氏。おそらく余程熊本の郷土史に詳しい方でないと御存じないと思いますが、木山弾正、その妻、息子の横手五郎の三つのエピソードが残っています。本稿では最初に木山弾正と加藤清正とのエピソードを紹介しましょう。
 
 木山氏は肥後益城郡木山(現熊本県上益城郡益城町木山)を治める国人でした。しかし天正十三年(1585年)薩摩の島津氏の侵略を受け本拠木山城が落城、木山氏は滅亡しました。その中で一族の赤井城主木山弾正も城を落とされ妻の実家であった天草氏(天草下島南半分くらいの領主、本拠は本渡城)を頼りその客将となります。
 
 その後豊臣秀吉が島津氏を征伐し、肥後は北半分を加藤清正、南半分を小西行長が賜りました。行長は宇土城を築城するため天草氏を筆頭とする天草五人衆(天草地方の国人領主)に普請手伝いを命じます。
 
 行長としては天草の領主として当然の事を命じただけでしたが、在地領主として秀吉に本領安堵されたという理解の天草五人衆は、小西行長の寄騎ではあっても家来ではなく手伝ういわれがないとこれを拒否します。
 
 こうして天正十七年(1589年)、天草氏らは小西氏にたいして反乱をおこす事になりました。五人衆とは天草氏、志岐氏、大矢野氏、上津浦氏、栖本氏です。これを天草国人一揆あるいは天正天草合戦と呼びます。
 
 烈火のごとく怒った小西行長は、これを鎮圧するため軍勢を派遣しますが地の利に明るい天草勢に敗北してしまいます。反乱を放置していては豊臣政権自体を揺るがしかねないと危惧した秀吉は周辺大名に行長を手伝って反乱を鎮圧するよう命じました。
 
 行長とは犬猿の中であった隣国加藤清正も渋々軍勢を派遣する事となりました。いや、このときはそうでもなく天草合戦での確執が後の深刻な対立につながったとも言われています。
 
 ともかく清正は、ふがいない小西勢とは別行動をし軍船を直接天草下島に回し(おそらく島原半島の有馬氏経由)上陸しました。この時の軍勢は諸説ありますが三千騎だったと伝えられます。
 
 加藤勢は反乱の首謀者の一人、志岐麟泉(りんせん)の籠る志岐城(天草郡苓北町)に攻めかかります。急使を受けた本渡城の天草種元は援軍を派遣する事となりました。率いるのは客将木山弾正。五百騎だったと伝えられます。
 
 加藤清正は天草氏の援軍を仏木坂(天草市本町の東向寺【とうこうじ】付近から苓北へ抜ける農面道路のちょうど峠付近。地図の茶屋峠あたり)で迎え撃ちました。
 
 この時清正は弾正の申し出を受け一騎打ちで勝敗を決したとされますが、現実的にはたかが反乱鎮圧で総大将が軽々しく一騎打ちに応じるだろうかと疑問がなくもありません。
 
 ともかく伝説では清正の方が不利で組み敷かれて下になったといわれています。夕方になり心配になった弾正の家来たちが見に来ると上にいる男が今にも下の男を刺し殺そうとするところでした。
 
 夕闇で確認できなかったのでしょう。家来たちは「殿は上か?下か?」と尋ねました。とっさに清正は「下じゃ!」と叫びます。こうして弾正は家来たちに討たれる事となりました。
 
 実は弾正は吃音症(きつおんしょう)でとっさに声が出なかったのだそうです。しかし普段から接している家来が主君の声を聞き間違えるとはちょっと考えにくいです。それに間違いに気付いて動揺したとしても中には殿の仇と清正を討とうとする人間がいても不思議でありません。一騎打ちでへとへとになっていたはずですから。
 
 
 その意味ではあくまで伝説にすぎないとは思いますが、こういう話が語り伝えられるという事は肥後人の複雑な感情を現しているのでしょう。
 
 木山弾正の墓は、本渡城の裏手(現殉教公園、天草市船之尾町)に残されています。昔、天草島原の乱の調査で殉教公園を訪れた時木山弾正の墓を発見して驚いた事がありました。懐かしいような一種不思議な感じになった事を覚えています。