※鬼武蔵と称された森武蔵守長可(ながよし)。
武田家は信玄の子勝頼の代に織田信長の侵攻を受け1582年滅ぼされてしまいます。論功行賞によって海津城を含む川中島四郡(更科、埴科【はにしな】、水内【みのち】、高井)十万石は森武蔵守長可に与えられました。
それまでの所領美濃兼山が推定三万石くらいですから大きな出世には間違いありません。長可は新領地に入ると信長の威光を背景に厳しい姿勢で臨んだようです。ただ従う者は積極的に採用しそれまでの海津城代だった春日信達も最初はこれに従属します。
長可入国直後危機が訪れました。1582年4月5日越後の上杉景勝と結んだ武田家の遺臣たちが蜂起したのです。一揆勢は武田家臣芋川親正に率いられる地侍など八千。この時長可指揮下の織田軍は三千あまりだったと伝えられますが、わずか2日でこれを鎮圧、反抗勢力を滅ぼすか領内から追い出して支配を固めました。
その後まもなく、織田軍は北陸から柴田勝家軍、上野から滝川一益軍が上杉景勝を一斉に攻撃しました。森長可もこれに呼応し五千を率い信越国境を越えます。森軍の進軍速度はすさまじく上杉の本拠春日山城を指呼の間に臨むほど越後領奥地に進みました。
圧倒的な織田軍の攻勢により上杉氏滅亡は時間の問題でした。ところが6月2日、有名な本能寺の変が起きます。数日して攻める織田軍各陣営にも伝えられ各軍勢は潮の引くごとく撤退していきました。上杉景勝はこれによって絶体絶命の窮地を脱したわけですが、一方越後国内に取り残される形になった森勢にも本能寺の変の急報は6月6日には早くも伝わっていたそうです。
長可はすぐさま決断し困難な撤退作戦を始めます。嵩にかかって攻めかかる上杉勢をあしらいつつほとんど被害を出さなかったのですから長可はさすが名将だと言えるでしょう。
しかし、この絶好の機会を見逃さなかった春日信達は武田旧臣(先の一揆には加わらなかった連中?)を語らって「人質を返さねば美濃帰還を妨害する」と申し出ました。そればかりか実力を以て阻止しようとふたたび蜂起します。
冷静に考えると信達たちはおとなしく森勢を帰した方が良かったと思います。どちらにしろ主がいなくなるのですから無駄な犠牲を出す必要もありません。一方上野国から滝川一益を帰した真田昌幸は上手い対応をします。昌幸は道案内まで出して一益の帰還を助けたそうですから人質も殺されずに済み、残った無主の城は自分の物になりました。
結局、川中島領を脱出し深志城に達した長可は、一揆勢との約束を破り信達の子庄助をはじめ人質全員を処刑し美濃に去りました。要らない事をしなければ犠牲を出さずに済んだはずです。一揆勢は反省したのでしょうか?
無主の地になった川中島四郡には上杉景勝が入りました。信達はこれに従い再び海津城代に任じられたそうです。しかし裏切りの虫は生来のものだったのでしょう。北条氏が南から川中島に迫ると、当時北条方だった真田昌幸の調略にはまり内応を約束します。
ところが上杉方も信達を心の底から信用していなかったようで、間もなく陰謀は発覚、捕えられた信達は磔刑に処せられました。裏切り者の末路です。
話はこれだけでは終わりません。森長可はその後羽柴秀吉に従い小牧長久手の合戦では舅の池田勝入斎恒興とともに三河討ち入りの軍に加わって戦死。兼山領は長可の弟忠政が継ぎます。秀吉も長可の戦死は気の毒に思ったのでしょう。この時森家は七万石に加増されていたようです。
一人の馬鹿者のためにとばっちりをくった親類縁者にとっては迷惑千万だったことでしょう。もし真田昌幸のように気持ちよく送り出していればこのような悲劇は起こらなかったかもしれません。
忠政は領国支配に対し兄以上の厳しい態度で臨んだと伝えられます。領民にとっても信達の悪行は最悪の結果となって返ってきました。このまま大規模一揆でも発生すればまた多くの犠牲者が出たに違いありません。小規模なものは何度か発生したそうですが…。
忠政も栄転話に二つ返事でこれを受け、川中島を去りました。ところが美作入国の際も一揆が起こったそうですから、忠政という人物は元々統治能力に欠けていたのかもしれません。これだけ悪政を続けるとお取り潰しになっても仕方ないんですが、幕府に取り入る能力(だけ)には長けていたのでしょう。